市川沙央『ハンチバック』
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この本に対して「よう分からんかったわ」と言った友人がいた。
彼の気持ちは分からないわけではない。
この物語では、主人公が欲するところの中絶が行われるわけではない。
この物語では、主人公の「障碍」ゆえに衝突が発生するわけではない。
この物語では、主人公が現世から脱して涅槃へと達するわけではない。
この物語は「摩擦」を回避する。「障碍者と健常者とが衝突し、やがては互いを認め合うと、和解する」というような話ではない。
そりゃそうだろう。そもそもが衝突(≒摩擦)さえ起こらないのだから。
恐らく、「障碍者小説」という空疎な名目に釣られた人間は最後の最後になって首を傾げてはこう言うことだろう。
「どうして主人公に障碍者という設定が必要だったのだろう?」
それで市川沙央さんのインタヴューを探しては、なるほどこの物語には文学界の健常者至高主義に対する異議提起があるのか、などと言うのはなんと簡単なことであろうか。
ただ言わせてもらうなら、────つまらないな。作者に向き合うんじゃなくて、作品自体に向き合ってから御託を垂れろよ。
本題に入ろう。
フィルムは回っている。この映画はそれでも進行していく。実際にこの映画を見ている間、私は映画のなかで何も起こらないことを願っていた。数回、何かが起こりかけるが、何かが起こる気配すら希薄なまま、結局は元の木阿弥だ。
鈴木創士先生は、かつてタル・ベーラ監督『ニーチェの馬』を上のように評した。
この評論を読むたびに私は震えるのだが、────それはさておき、この「何かが起こりかけるが、何かが起こる気配すら希薄なまま、結局は元の木阿弥」という表現はそのまま『ハンチバック』に当てはまると思う。
清い人生を自虐する代わりに吐いた思いつきの夢を私は気に入って固定ツイートにしていた。〈生まれ変わったら高級娼婦になりたい〉
金で摩擦が遠ざかった女から、摩擦で金を稼ぐ女になりたい。
前述のとおり、『ハンチバック』では「摩擦」が回避される。つまりは、「すれ違う」のだ。介護ヘルパーと正面から喧嘩することもなければ、ネット上で不特定多数の人間に炎上させられることもない。摩擦熱はいつも発火点の前で潰えてしまう。「何かが起こりかけるが、何かが起こる気配すら希薄なまま、結局は元の木阿弥」。そうして目立ったものを探していた人々は何もないじゃないかと言い嘆息する。
いやいや、ちゃんとあるだろう────「回避された摩擦」という、どうしようもない空白が。
そう。その憐れみこそが正しい距離感。
私はモナ・リザにはなれない。
私はせむしの怪物だから。
全ては正しい距離感をもって廻転する。主人公は自分を縛り付けている現況から抜け出すことは出来ずにいる。上昇もなければ降下もない。万物は廻転している。主人公という悲しき空白を取り巻くようにして。
そんな時、空白は何を思ったのだろうか?
私の紡いだ物語は、崩れ落ちていく家族の中で正気を保って生き残るための術だった。
この時、物語は物語ることによって自己完結を迎える。物語は物語ることによって意味を成すのだ。彼女にとって物語ることそれ自体が恩恵であったように、物語はただ語られる。
では、いったい何のために物語るのか?
それは物語で感動させるためでも、物語で問題提起することでも、物語で存在証明することでもないだろう。それはきっと、物語るためなのだ。だから物語は摩擦を回避する。物語自体が何らかの意味を持ちえないように。物語が物語る以上のものを見出さないように。
この小説について、「物語ることによって物語ができ、物語によって物語るという必然性が担保されている」と見るのが適切だと私は考えている。この物語は「物語についての物語」でもあるのだ、と。
私には、ここにある当事者性が「障碍者女性の当事者性」ばかりではないように思われてならないのだ。それは、「書かざるを得なかった人々の当事者性」でもあるのではなかろうか?
私はその問いに、是と答えるつもりである。
そしてそれ以上に言うことなどありはしない。