讃美歌
私は強烈な殺意だ。他人からの要請と決して充足しえない願望のために、いつも煩悶しつつ猛っている…………
鏡の中には恥じらいや哀しみさえもない一対の瞳があった。もう何もかもがどうでもいいのだとでも言いたげな黒い目だった。恥じらいや哀しみさえも介入する余地のない視線の中で、冷たいものが動くのを私は感じていた。
私が愛しているのは無垢さだ。打算から抜け出で、自由を体現し続けるイノセントさだ。
人々は「善」「正義」「利益」という概念にその身を隷従させている為、私に重々しい感応を抱かせるのだ。それらは高度に計算されており、心地が良くなるほどに函数的である。
ただ、もしそこに「無為」の入り込む余地があるならば、打算の抜け出でる瞬間があるというのならば、私はたちまち笑い出すことだろう。
展望もなく、それゆえ希望もなく、不安もなく、ただあり続ける、そしてあり続けることに(打算的な)疑問を挟まないでいる。
軽くあり続けるということ。これは無垢にのみ許された所作である。
破滅的であるとは、ただ狂信的であることに他ならない。通俗的なニヒリズムなのだ。そんな彼らが「軽さ」を知るためには、信奉対象が転倒する必要があるだろう…………
結局のところ、軽さとはゼロに到達することに他ならない。
血塗れであること、そして拭えない血餅を思い絶望するということ。それは明らかに供犠のイメージと接続している。
愛は賭けられることを待ち侘びている。愛とは好運なのだ。それ以外の在り方はあまりも醜い。
何かを書くたびに覚える恐怖心について、それは恐らく去勢されるという恐怖なのだ。私はおのれを特権づけようとしながら生きている。そしてその桎梏が外れるのは、いつも我が身から逃走している時だ。ならば、私は私自身から逃走しなくてはならない。罪の中で圧死する前に、遠く、速く、そして高らかに笑いながら。