俺を撃ち抜いてくれ

 十八歳というのは願望と現実との間で引き裂かれる残酷な時期だ。欲しいものが手に入らないことに焦燥を覚え、手に入ったものがすぐに風化することに絶望を覚える。どうやらこの時期になると、自己顕示欲が強くなりすぎるようだ。「自分が」という主語の強さに抗いきれないのを、私自身いつも感じている。そのためであろう、私がラカンの「去勢」やバタイユ=ブランショの「コミュニカシオン」、そしてドゥルーズ=ガタリの「逃走」に興味を示しているというのは。私は恐らく、自分という重力からの脱却を目指しているのだ…………。しかしながら、その離脱は上手くいくことはないだろう。この重力の強さに抗いきれないのを絶望的に認めて初めて、人は主体を肯定することになる。つまりは妥協なのだ。しかも相手に限りなく譲歩した妥協だ…………。私は飛び続けることができないだろう。軽くあり続けることはできないだろう。孤独の中で窒息するのは今だけだ。いつしかこういう事を口にするかもしれない。「私に欠けているのは息切れだ」と。十八歳の絶望は、期待に満ちれば満ちるだけ、完璧なものとなるはずだ。

 私は無力だと言明することは、恐らく撞着語法となってしまうだろう。私は無力ではないがゆえにこう語るのだ。しかしながら、私はそのことを早急に無視してしまう。だが結局、私の感覚に勝るものはないだろうと。ここに私の、ひいては我々の弱みがある。

 「自分の意見を持つために」という言葉は好きではない。どの意見も結局は偽物だ。そしてこの指摘もまた偽物なのだ。

 この自分と他者との弁証法を保存した果てに、私はバタイユやブランショの後ろ姿を見るような気がする。というのは、彼らがこの無価値で無意味な保存を「使い道なき否定性」「中性的」と名付けていたからだ。そしてこの線の先には「純然たる幸福」がある…………

 十八歳なのに文を書くなどということは大それたことに違いない。早熟の才能を持つ人々は、自我を押し除けてしまうほどの才能があったがゆえにそうなったのであり、そのためジンメルがいみじくも指摘したように、彼らは非人間的な極として現れ出るのだ。私はこう書きながら、モーツァルトの散歩を、そしてランボーの放浪とを感じている。

 この自我の強烈さが最も顕著に現れるのは恋愛においてであろう。人が激しく愛を求めるのは、自分が自分ではない可能性を追い求めてしまうからだ。しかしこの企ては大概の場合破綻する。与えられたものが自分のものになると感じられる・・・・・のは限られた時間だけだ。いずれは求めるものに、求められるものに慣れてしまう。しかしながらいくつかの可能性は、その過程の中に、反目的論的なプロセスの中に保存され続けるのだ。問題は、その微々たる可能性に満足し続けるほどの欲望か、ということである。

 私は二つの言葉しか持たない。「全てを教えてくれ」と、「俺を撃ち抜いてくれ」と。

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