ロボットなんて大っ嫌い!
お嫌いですか、ロボットは?#42 チッキを知るのは60代? チェキなら知ってるけどね(上)
――いらっしゃいませ。
マスター元気? いやあ、今夜も寒いね。今週もほんと、疲れたわ。
――たしかに、今夜も冷えますね。お疲れのようですが、大丈夫ですか?
まぁね。新年からフルスロットルだからねぇ。ところでマスター、また「まん防」の張り紙? また9時までなの? まったく、いつまでやるのかねぇ、営業規制を。経営者のマスターには悪いけど、措置を出す知事連中には『ハイハイどうぞ』って感じだね。まん防の影響で、この1カ月でかいた大汗が、無駄にならなきゃいいけどさぁ。
――いつものでいいですか? ジャックソーダで。
うん、頼むわ。レモンをぎゅっとしぼってね。えっと、今夜のおすすめは「シラスとカラスミのマリナーラ」かぁ。ところで、マリナーラって何? まあ、いいや。それ貰うわ。カラスミって、日本だけでなく台湾でも作ってるんだよね。そうそう、マスター知ってる? クロネコヤマトが飛行機を飛ばすんだってさ、ロゴ入りの。そういう時代になったんだねぇ。むかし学生のころ、運送会社でバイトした事あるけど、あれはひどかったもんなぁ。ヤマトや日通なんかの大手はしっかりしてたらしいけど、中堅以下の運送会社の荷扱いなんてとんでもなかったからね。ヤマトが始めた小口配送の「宅急便」が好調の波に乗ったのを受けて、「ウチも」「ウチも」と多くの会社が宅配業に進出した。けれど、20年もすれば淘汰が進み、今じゃひと握りの大手以外は撤退するか、看板を掲げたままでほとんど扱っていない、事実上の開店休業状態なんだよなぁ……………。
むか~し、むかし。俺が生まれた今から半世紀前、つまり50年前までは、個人が荷物を送ろうとすれば、郵便局に荷物を持ち込んで送る「郵便小包」か、当時の国鉄、今のJRの鉄道を利用して送る鉄道の託送手荷物「チッキ」しかなかった。もちろん、俺がまだガキのころだから、自分で利用したことはない。
郵便小包はその後「ゆうパック」に名を変えサービスも拡充したが、当時は重量が6kgまでの荷物しか送れず、ましてや自宅まで荷物を取りに来てくれる集荷さえなかった。郵便局はまだ郵政省傘下のお役所で、自分で荷物を郵便局に持ち込み、窓口で配送を「お願い」するものだった。
鉄道で送る「チッキ」も似たようなもの。国鉄はその名の通り国有鉄道で、職員は公務員みたいなもの。駅員だって車掌だって、そりゃあもう偉そうな態度だった。郵便小包が6kgまでだったのに対し、チッキは30kgまで送れたが、梱包してヒモで縛り、駅の中でも比較的大きな「小荷物取り扱い駅」に持参して受け付けてもらう。ヒモで縛ってなかったりしたら、突き返されて受け付けてさえくれなかった。逆に、受取人は最寄りの小荷物取り扱い駅に出向き、荷物を受け取りに行かなければならなかった。
「持参して……」と文字にすれば簡単に聞こえるが、想像してほしい。最大30kgの荷物を、どうやって駅まで運ぶのか? 30kgと言えば、2リットルのペットボトル15本分だ。最寄り駅まで自分で運び、電車に乗り継いで小荷物取り扱い駅まで運び、駅の窓口まで持参するのだ。横柄な駅員に「お願い」して受け付けてもらうのだ。
荷物の受取人は受取人で、差出人から「〇日に送った」との連絡を受けると、到着するであろう日を予想して小荷物取り扱い駅まで出向き、荷物を受け取り、最寄り駅まで自ら運び、駅から自宅まで、もちろん自分で運んでいた。「到着するであろう日」の予想を誤ると、翌日もしくは翌々日に出直しである。
今じゃ考えられないが、50年ぐらい前の国鉄はたまにスト(ライキ)をやったし、サービス業の意識のなかった駅員は、勤務時間しか働かない。夕方5時を過ぎたら、目の前に荷物が届いても、作業は翌日なんてザラだった。しかも、荷扱いはひどく、ヒモで梱包した荷物の箱は破れ、中身が壊れるなど「ごく普通の事」だった。現代に例えれば「中国の役人仕事」を想像すれば、そう大きく外れてはいないと思う。
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