富野由悠季監督が本当にブチ殺したかったもの
パプテマス・シロッコは、機動戦士Zガンダムのラスボスだ。
カミーユは、最後の最後に、全怨嗟を込めてこの男を叩き潰したが、ほぼ相打ちの形で彼は精神の柱を失っている。
しかし、シロッコは、Zガンダムという物語の中で「最終的に叩き潰すべき」と思わせるほどの巨悪だったろうか。
シャアとカミーユは、富野由悠季監督の分身である。
そのカミーユをして、なぜ監督はこれほどシロッコを憎んだのだろうか。
昔から「土曜夕方、茶の間のテレビで、オッサンが裸で踊っている」と言わしめたほど、富野監督は自分自身の精神を作品にモロ出ししている。
となれば、Zガンダムにもまた、監督自身を取り巻く「なんらかの現実」が描き出されているはずだ。
その視点から、Zガンダム最終話「宇宙を駆ける」を読み解きたい。
シャアもまた富野監督の分身である。そのシャアとシロッコはどういう位置関係にあるだろう。ハマーンとシロッコが互角であるとして、その二人を向こうに回して、シャアは回避と防戦が精一杯だった。シャアはシロッコに勝てない。現場ではおそらく一番偉いであろう監督が、段違いに勝てない相手。
これはたぶん「テレビ局の人間」だろう。
(具体的な役職などは追求しない)
シャアがシロッコに勝てないのは「持っている武器」の違いもある。
こちらは金色で見た目は派手だが、百年戦えると言われたもののΖガンダム本編中には、もう性能的に旧式となりつつある百式。監督の武器である「テレビアニメ」は、1986年あたりから冬の時代を迎える。(子供の興味がゲームに移っていった時代)
片や、まるまると太っているのに、推力まかせの異常なスピードで無敵を誇って駆け回り、「隠し腕」なる卑怯な武器で不意打ちしてくるジオ。これこそ監督が戦い、直接対決を避けたもの。バブルまっさかりにあって巨大な「テレビ局の人間」そのものではないだろうか。
そう考えるといろいろ合致する。
テレビ局の人間が持つ雰囲気を、シロッコに透かしてみよう。
シロッコは「これからは女の時代だ」と、女を祭り上げながら、女を利用している。
耳あたりのいい建前ばかりで、彼自身は女性の価値を、商品や道具としてしか認めていない。
たとえばサラだ。十代の少女をたぶらかして、シロッコはえげつない作戦(月面都市爆破)をやらせている。
「そんなにシロッコに抱かれたいのか」とカミーユがサラに怒るのは、プロデューサーと寝るアイドルへの監督の嘆きだ。
(このときのサラの服装が、胸を強調してへそを出す(スパイとしては異様な)スタイルなのも、テレビ局のアイドルイメージが投影されているのかもしれない)
シロッコと関係のある女性、サラ、レコア、マウアー(・・・は少しだった)は、多分、富野監督が現実に好きなタイプの女性で、彼女らがテレビ局の人間によって毒牙にかけられていく様を見ていたのではないだろうか。(「十代の少女をたぶらかして戦争をやらせる」というのは、シャアもララアのケースで同じだ。シャア=監督であるなら、近親憎悪を抱いていたのかも知れないが)
シロッコは、そうして女をはべらせて、上から目線でものを言ってくる人物である。
さらに異様に広い人脈。 シロッコがヤザンに認められているあたりは、芸能界にいるヤザン的な野性味のある芸能人と仲が良い、あるいは本当に武闘派ヤクザと仲がよい様子を揶揄しているのかもしれない。
ただ仕事そのものは評価していない。監督は、シャアを通じて「自分より強い」とシロッコ(テレビ局の人間)を捉えてはいるが「ジャミトフ閣下の弔い合戦である」と自分が殺した組織の長の位置にちゃっかり収まる狡さを認めても、彼が得たティターンズ艦隊は、結局壊滅している。
また、彼自身は自己顕示欲が強烈だ。制服組の中で、一目でわかる服を着ている。彼の開発した個性的で強力なモビルスーツ。メッサーラ、ボリノークサマーン、パラスアテネ、ジオ。それらは、プロデューサー的に言えば、個性的な番組制作の実績かもしれない。それだけ実力がありながらシロッコは「自分は歴史の立会人だ」というスタンスで、無責任に現場をかき回す。 「戦争をおもちゃにしている」とシロッコが評されるのは、テレビ局の都合や思いつきで振り回された現場の経験が言わせているのかもしれない。
Zガンダムにおいて、シロッコは富野監督が見た「テレビ局の人間」として、苛立ちと怒りを込めて描かれているように思える。
我々がシロッコに抱く嫌悪感は、富野監督が「テレビ局の人間に対して抱く不快感」が映されているのではないか。
戦場で遊ぶシロッコは、カミーユが一番嫌いなタイプだ。
富野由悠季監督は、彼に自分の気持ちを思いっきり乗せる。お前がもてあそんだ女たちは、お前を恨んでいるぞとばかりに、最終回でカミーユはゴーストウーマンズを引き連れて誅殺せんとシロッコに迫る。
最終戦で、シロッコはジュピトリスが射線にあるのも構わず、Ζを撃った。ビームは彼の家とすら言えるジュピトリスに命中しているが平気な様子だ。シロッコは、そういう男だ。自分の属する業界であっても、平気で傷つける。彼に向かってカミーユは絶叫する。
「お前だ! いつもいつも脇から見ているだけで、人をもてあそんで!」
「許せないんだ、俺の心にかえても、身体にかえても、こいつだけは!」
「わかるはずだ、こう言う奴は、生かしておいちゃいけないって! みんなには分かるはずだ!!」
シロッコの女たちが悲惨な死を迎え、一人きりになっても彼は傲慢なままだ。そのシロッコの自由を監督はアニメの力で奪い、全存在をウェーブライダーの先端に込めて「ここからいなくなれ!!」と絶叫して特攻する。バイザーが内側から破裂したのは、彼の内面がすでに壊れ始めている象徴だ。飛田さんの演技も真に迫って凄まじく、限界を超えた少年が全てを叩きつける様は、同時に限界に達している富野由悠季監督の叫びだった。
Zガンダムの初期、監督の分身であるシャアは、サングラスをかけて本心を隠している。Zガンダムの文法において「目を隠す」とは本心を隠す、不本意ながら仕事をする、という象徴だ。そのシャアも後半は素顔で戦うようになった。覆い隠されてきたバイザーを、内側から突き破って飛び出したのは、紛れもなく監督の本心だ。「ここからいなくなれ!!」と発せられたその強烈な意思は、テレビ局の人間に伝わっただろうか。
少なくとも、監督自身は伝わったと思っている。その後に作られた「逆襲のシャア」のタイトル前、νガンダム初登場シーンで、このモビルスーツは目隠しをされているのだ。見てくれ、一回ひどいモロ出しをやらかしたから、こんな恥ずかしい状態でまたガンダムの仕事をすることになったよ、という照れ隠しにも思える。
それほど激しく本心をぶつけた相手だが、カミーユとシロッコの間には深い人間関係は無い。
その彼があそこまで言って、死んでも殺すとばかりに全力で潰した相手がパプテマス・シロッコという男だ。
あの富野監督が、一年間かけて最後の最後に、絶対にブチ殺したかった相手とは、いったい誰だったのだろう。
これは、現実の個人を追求しても仕方が無い。
劇場版でのカミーユはやや理性的で、最後にΖガンダムはウェーブライダーではなくモビルスーツ形態に戻っている。
テレビ版のZガンダムは、シロッコを殺すためのマシンになったまま、そのままカミーユも心を失っている。
ウェーブライダーは、ファーストガンダムのラストで飛び去るコアファイターがそうだったように、十字架の形をしている。Zガンダムの背中に配されたウイングバインダーは、最終回で補助翼を展開し、スタビライザーも上がってまるで背負った十字架だ。
それは、犠牲による死の象徴。
監督はテレビ版Ζガンダムにおいて、そういう死を覚悟したのだ。それが劇場版では、モビルスーツ形態に戻り、その際には背負ったウイングバインダーも、シールド先端パーツも、スタビライザーも、十字架のシルエットを構成するパーツを全てパージしている。
20年を経て、十字架を背負って戦い、十字架そのものになってしまったガンダムが、人間の姿にもどったのだ。
富野監督がこの劇場版を「新訳」と銘打ったのは、彼が犠牲による死から蘇ることができた、という証明なのだと思う。その監督が誰を憎んでいたかは、もう追求しなくてもいいはずだ。
ただ、それはそれとして、シロッコは同じ方法でブチ殺しているので、Ζガンダムは、やはりそこだけは外せない物語だったのだと思う。
シロッコ=テレビ局の人間説は、どこをとっても決めつけだ。
しかし、Zガンダムのあの凄まじいラストに、監督の気持ちがこもっていないはずがない。
53歳の筆者は、一番青臭く影響を受ける十代の時期に、このガンダムに触れた。自分の青春の一部を、この作品のこのラストにえぐられている。
その傷跡とともに過ごしてきた年月を、こうして53歳の洞察力(または下衆の勘繰り)で振り返ってみた。
20年たったから、少しだけ覗くことができる。
カミーユの絶叫の背後に、ひとりの天才の、血を吐くような叫びがあったことを、筆者は愛しく思う。
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