戦後日本とサブカルと共依存の話
共依存とはお世話するものとされるものの共犯関係だとも言われてます。酒飲みの亭主を支える妻から派生した言葉らしいのですが…そう考えると日本のアニメなど、サブカルチャーにもそのような関係性が溢れている事に気づきます。
サブカルに溢れる共依存的な構造
アンパンマンとバイキンマンも共依存、マリオとクッパ(!)も共依存、片方が悪さをして片方がその尻拭いをする永続的な関係とも言えます。
ルパンと銭形の関係はその典型で、実際ルパンを捕まえた銭形が萎れてしまうエピソードもあったと記憶しています。アムロとシャアも…と思いきや一応この二人は関係性が変化し年を取っているのでまた別物か。ライバル関係もまた依存や執着の1つの形とも捉えることが出来ます。
たけし映画などではしばしば人情味に溢れた破滅願望を抱えた親分と、それに追随する一味が、破滅的な未来へ向かう構図が描かれます(ある意味、たけし軍団とたけしの関係の縮図とも言える?)子弟的な共依存の破滅をロマン的に描いたとも言える。こういったどこか共依存的な展開を繰り返す物語を典型的に描いたのが日常漫画やラブコメ漫画だとも言えます。
繰り返される日常と変わらない日々というループ構造
「うる星やつら」では他の女に目がいってしまう主人公あたるをヒロインのラムが嫉妬する構図でドタバタしたラブコメが繰り返されるのでお馴染み。
この構図に自覚的にメスを入れたのが押井守が監督したうる星やつらの劇場版2作目「ビューティフルドリーマー」となるはず。
高校の学園祭の前日「いまの日常を変えたくない」と願ったラムの願望を妖怪(夢邪鬼)が汲み取り、主人公たちは学園祭前日の1日を何度も繰り返すことになります。いつもと同じラブコメ展開が繰り返されると思いきや、あたるに好意を寄せる素振りを見せた各ヒロインたちは「永続的な関係に変化をもたらすもの」だとして排除されてしまいます。
何度も同じ日常をループしている構造の違和感に気づいた他のキャラクター達も次々に姿を消す。
最終的にあたるがこのループ構造を破壊し、いつものラブコメドタバタ展開を思わせるフィナーレで物語は幕を閉じます。
平成の半ばを切り取ったセカイ系の登場
この80年代のラブコメ的日常をさらに推し進めた形になったものが、主人公とヒロインの2人とその半径5メートル以内の人間関係や1つの町内レベルの世界で話が完結しているにも関わらず「可愛そうなヒロインを主人公が救う構図」と「世界の左右するような大きな物語が(中間にある組織や人間関係を大幅に間引いて)イコールで結ばれ」てしまう「セカイ系」と言われる作品群。
「新世紀エヴァンゲリオン」にその萌芽が見られ「最終兵器彼女」「ほしのこえ」に端を発する新海誠の劇場作品の多くや「涼宮ハルヒの憂鬱」などのラノベ系「AIR」を始めとしたノベルゲームの多くがその類型に属すると言われています。
特に色々と物議をかもした(実質目を通していないのですが…)涼宮ハルヒのアニメ二期「エンドレスエイト」がほのこのビューティフルドリーマーを踏襲した内容になっていると言われていますね(ほぼ繰り返されるループの展開をそのまま描いてしまった)
メタ・RPG
またテーマが「ラブ」と謡ったプレイステーションのRPG「MOON」ではRPGにおける勇者とモンスターの関係(RPGのお約束)を一種の共依存的な関係として捉え直し第三者的な主人公の介入でそれを変化させていく内容となっていました。ストーリーを進めるうちに主人公はやはり世界の構造に気づく、この世界は円盤の中に配置された世界(ゲームのデータが収められたCDの中を模した世界)だとされ、最終的にゲームを続けるか続けな否かの選択を迫られる。ゲームを辞める選択肢を選ぶと、街中のあちこちにゲーム中に登場するキャラたちが解き放たれたEDになります。
繰り返されるゲームの構造やお約束を打破し(EDに行きつくまでにこの世界の構造を示唆したキャラが表れて、哲学的にこのメタ構造の根の深さを説くシーンがありますが、この辺の下りは実に印象的でした)ゲームのキャラクター達も含めて「日常に解放された」状態が描かれているという構図になっていました。
この辺、ノーライフ・キングという映画をちょっと思い出したのですが…。こちらも繰り返されるゲームの構造が日常を侵食していく怖さを描いていく1面がありました。
ちなみに、ワタクシ的にはたけし映画もセカイ系といわれる作品群も大好物ではあって。キタノブルーと言われる独特の間と情緒感、日本のベッドタウンの日常や青春をユートピア的に切り取るセカイ系も構造や画の力というのはとても大きい。一方で共依存的な(終わりなき日常の永続性や無償で純粋で犠牲的な関係性)形をどこかで無意識に美化してしまっている側面もあるのかなと感じています。
変化していく物語の型
これらのアンチテーゼとしては、変化と競争を強いられる社会で生き抜いていくバトルロワイヤル系(サヴァイヴ系)の存在が指摘されています。格差が広がり出した00年代に「セカイ系」と同じように登場した物語の「型」でバトルロワイヤル、賭博黙示録カイジ、デスノート、仮面ライダー龍騎などがそれに連なる物語だと言われています。昨年話題になったイカゲームや半沢直樹もまた、この流れに含まれる…はず。
こうして、セカイ系とそれのアンチテーゼであるサヴァイヴ系と言われる作品群が同時並行的に進んでいたのが、平成の半ば以降であったような気がします。その後は、サブカルの世界では全能感あふれた主人公が無双する「なろう系」や「異世界転生系」あるいは延々と日常を描いた「日常系」と言われるアニメなどが際立った作風として台頭してきました。ある意味、より極端な作風に偏っていったと言えるのかも?
ただし、このセカイ系とサヴァイヴ系が作風としてハイブリッドに融合していった流れも昨今のヒット作からは見られます
現実に抗え?
一昨年、社会的なブームとなった鬼滅の刃の劇場版では(この種の物語ではよくある型とも言えますが…)主人公、炭次郎が敵の鬼( 魘夢)による術にかかると物語の発端となる亡くなってしまった家族は(そのまま半分鬼の血が入ってしまった妹も含めて)生前そのままの姿で現れて、家族から「ずっとこのままの日常でいよう」と伝えられ、平和で変化のない一種のユートピアのような日常が描かれる。(この際仲間キャラの伊之助や善逸もそれぞれ幸せな夢に魅せられた状態)そこで主人公が違和感に気づき、ユートピア(深層心理の欲求)から冷め、現実と戦おうとする。これを意志として分かりやすく体現したのがこの映画の顔でもある煉獄さんであると。
同年公開されたセカイ系の端緒となった言われるシン・エヴァンゲリオン劇場版でも同じような結末が示され、旧劇場版のラストでは「オタクたちよ現実に戻れ」的な庵野監督のメッセージのようなものが提示されていましたが、物語的には煮え切らない形での幕ともなっていました(旧エヴァはほぼ監督の個人的なエッセイのような作りになっていたとも言われていますね)それから20余年を経て公開された劇場版では概ね旧作を思わせる流れを3作目のQまでに辿った後、父親ゲンドウとの本格的な対決シーンを経て、エピローグで成長した(表情もどこか自信にあふれた)シンジがマリの手を引いていくラストでエンド。物語的にはどちらも分かりやすい「主人公たちの成長譚」に回帰しているとも言えますが、この新劇場版のラストで20年弱のもやもやに決着がついたと感慨深げな意見も多く見られたのを覚えています。
戦国日米安保の核の傘に守られて経済発展に邁進できた戦後の日本。
その中で自然と「お世話するものされるもの」「執着するもの追われるもの」「繰り返されるお約束」という一種の共同幻想や共依存的なものが一つの美徳とされ、その日常から立ち上がってきたのがセカイ系や日常ラブコメといった作品群ともいえます。
債務を積み重ねながら文句を言われながらも、自民党が勝ち続けているいまの日本もその関係は決して健全と言えるものではなくある種の予定調和、そして共依存的な関係とも言えるのかもしれません。昭和後期から平成の世の日常を変わらない形で彩ってきた「笑っていいとも」や「こち亀」も平成の終わりに続々と終焉を迎えてしまいました。
しかし、新型コロナウィルスの蔓延やそこから立ち上がってきたような30年間まったく成長していない日本という風潮。そして、ロシアのウクライナ侵攻は、まるで時代が1世紀前に戻ってしまった風潮すらあります。郊外のベッドタウン的な世界で終わらない日常を繰り返す日々は徐々に難しい方向へ差し掛かっているのかもしれません。今後、どういった物語の型が生まれてくるのでしょうか??
実は別の意味で怖かった「火垂るの墓」
元ガイナックス社長の岡田斗司夫さんがYOU TUBEで力説していましたが、火垂るの墓がほんとうにいたたまれないのは「共依存的な関係」の末路を描いているからだとも指摘されています。あの映画では2人は生き残るのに充分な金もあり、親戚の叔母さん始め、周りの理解を得られれば十分に生き抜く事も可能だった。高畑監督自身も、兄妹が2人だけの閉じた家庭生活(変化しない平和な日常という幻想)を築くことには成功するものの、周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に失敗していく姿は現代を生きる人々にも通じるものであると解説しています。
一方でこうも伝えています。
「当時は非常に抑圧的な、社会生活の中でも最低最悪の『全体主義』が是とされた時代。清太はそんな全体主義の時代に抗い、節子と2人きりの『純粋な家族』を築こうとするが、そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう。しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。我々現代人が心情的に清太に共感しやすいのは時代が逆転したせいなんです。いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします。」
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