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幸せに生きる本質とは??
人類がずっと抱えてきた死というテーマ
少し前に話題になった本で、「死は存在しない」(田坂 広志)という本がありました。科学的にも死後の事はほとんど解明されていなくて、現在の先端の科学を使って死後の世界を検証した本という事でちょっと見出しに惹かれて流し読みしてみたのです。ちょっとスピリチュアル的なものも含んでるし、なんとなくぼんやりした概念ですが、それを見てちょっと思った事も多かったので、まとめてみました。
その本の中でゼロポイントフィールド仮説なるものが出てきました。それによると世の中にあるもの、例えばある地形にある丘に、特定の強さの雨が打ち付ける。それと全く同じ条件を繰り替えす日というのはたぶん二度はなく、そういう細かい風土の変化や気象は勿論、同じように個々に違った情動を持つ人間のその時々に持つ感情、その行動や生き方までが全て「記録されている」との事。よくスピリチュアルとかアニメなんかで耳にするアカシックレコードで例えられるものに近いのかもしれません。
その「記録」を残す事こそが生きる意味であり、死後は生前とは違った形ではあるものの人の意識もそのゼロポイントフィールドに集約され、自我や執着がなくなった状態で、一番親しかった頃の姿で例えば両親や友人や先祖などとも再会できるという事だそうです(このへんちょっとこじつけ臭い気もしますw)
ざっと目を通しただけなので細かい概要は違っているかもしれませんが、概ねそのような事が書かれていました。量子力学なども含めた現在の先端科学を踏まえての理論だそうですが、部分部分でスピリチュアル的な匂いもあり、賛否別れる面もありそうです。そもそもやたらとスピリチュアルに紐づけて語られがちなものの現代物理学の分野での筆頭が量子理論だとも言われています…
ただ個人的には面白い見解だし、宗教の教義や種々のSFが描いてきたものと不思議とリンクしている部分もあるなと。洋画「インターステラー」なんかは部分的にそういう概念を描いていた映画だったとも思います。また「コンタクト」などもそうですが、何か大きな神的な存在があって、そこに到達する(これが真理といわれるようなもの)事が人類の目的であるというテーマを特に欧米の作品では描かれる事も多いです。
そして、その「生きる意味は記憶を作る事」「地形を内包した天体などもまた生物のように記憶を持つ」という流れで、急に思い出したのが「クロノ・トリガー」でした(笑)クロノトリガーや当時同じスクウェア社が手掛けていたファイナルファンタジーシリーズなどは、死んだ人間もそれで終わりでなくエネルギー体となって地球と1つになる。
そして、しばしば思念体となって死後も主人公たちを助けたりする(ガンダムやスターウォーズでもみられる描写ですが)そして、地球自体もまた1つの大きな生命体と捉える「ガイア理論」を作品のテーマの1つに据えているタイトルが多かったと言われています。シリーズの立役者、坂口博信の作風だとも言われていますね。
星も記憶を持ち、生命は連鎖で繋がっている?
クロノトリガーは知性体の住む星々に寄生して、エネルギーを吸い取りながらその膨大な魔力で知性体にもエネルギーを与えそれが基で文明が起こり、その文明が成熟しきったところで星のエネルギーを吸い尽くして滅ぼし、また別の星へ移動すると言う「ラヴォス」という宇宙生物が元凶=ラスボスになっています。
そのラヴォスに取りつかれた地球の各時代にタイムワープを起こすゲートが出現し、なり行きでそのゲートに飛び込む事になった主人公「クロノ」達は行きついた未来でラヴォスによって自分たちの住む時代の先に崩壊する未来がある事を知り、その崩壊を食い止めるためにタイムゲートをくぐり現在・過去・未来を行き来しながら冒険を繰り広げ、各時代で得た仲間たちとともに「ラヴォス」を倒す手段を探っていくという筋書き。以下結末的な物に触れる記述になるのでご注意ください。
その終盤に「緑の夢」という示唆的なエピソードが導入されています。未来の世界では枯れてしまったある土地を元に戻すために未来世界の仲間になった「ロボ」が過去の時代(中世)に遡って畑を耕し、タイムゲートで繋がった直近の未来=400年後(現在)に蘇った森の中の神殿に祭られていた所をクロノたちに回収されるというエピソード。メンテナンスして復活したロボは、400年ぶりに仲間たちと再会し語らう中で各時代にタイムゲートが出現したのは何者かが星の記憶を自分たちに見せたかったのではないかと語るのです。
つまり、ラヴォスに寄生された星が断末魔にその記憶をその星に住まう人類に見せたいという意思がタイムゲートの出現となって発言し、星が辿ってきた歴史の節々を垣間見せ、その様々な時代の仲間が集まって結果的に星を救ったという流れなのです。
https://youtu.be/5EvXxVPJq_U?si=vrQhMh_lNlE8cM0E
その続編である「クロノクロス」では、クロノトリガーのパラレル世界が舞台となりクロノトリガーの作中で、人間と戦って滅びた「恐竜族」を始め、様々な滅んだ多種族にもまたスポットを当て、最終的にそれら滅びた種や亡くなった人たち1人1人がDNAという大いなる可能性を示す黄金の輪を成す連鎖であり、捨て石の人生や死はなかったという壮大な生命賛歌とも言えるエンディングにも繋がっていたのでした。
人間の進化にも広げられるスペースにも限界はある?
少し話はずれますが…肉体的にもろさもあり食物でエネルギーを取らなければならず、寿命という限界もある人間に変わって将来的に前述のロボのようなアンドロイドができたら。そして現状のロケットの推進距離に限界がある以上、宇宙開発はエネルギーの補給や肉体の劣化や破壊に修復が用意なアンドロイドが主役として担う時代がやってくるかもしれません。すると未だ手つかずの深海や火星や月の開発、木星あたりまではスペースコロニーで到達可能な未来が来るのかもしれません。
しかし、人間はけっきょく地球に留まる存在になると思うし、あまりに広大な宇宙の事。少なくとも太陽星系外の規模の事は人類は「観測」で知る術しかないのだろうなと思います。AIとの共存というテーマは続いていくと思いますが、紆余曲折ありながらも地球周辺の限られた環境の中でどう生きるのかが今後も延々と続いていく事になりそうです。
宇宙移民と地球に残った人類の対立を描いたリアルロボットアニメの草分けであるガンダムシリーズもシリーズ初期の総監督である富野由悠季が描いた全てのシリーズの最期の時代とされる「ターンエーガンダム」の時代になると、外宇宙に進んだ人類を除き、多くの人類は一定のテクノロジーに抑えた文明レベルに留まり、月と地球の狭間で日常に回帰していくようなEDが描かれていました。ユニコーンなど先に進む人類の意思を肯定的に捉えるシリーズがある一方で、どこか日常回帰というかSFでありながら「禅的」なテーマも抱えているのがガンダムの面白い所かもしれません。
AIに関してはAIが逆に心を宿したり、パーツで生き永らえた人間が逆に自分の心のありように惑うような時代もやってくるのかもしれません。攻殻機動隊では完全機械ベースのロボット=アンドロイドであるタチコマが自己犠牲の概念を学んだ時に「ゴーストが宿った」と表現され、逆に肉体を義体化した元人間である草薙素子を始めとしたいわばサイボーグである人類側が逆に自分の心のありように迷う描写がありました。意識と言うのはどこにあるのか、どういう概念をしてそれというのかという疑問ですね。
寿命は延びても人間の意識には限界がある?
現在の人間は、江戸時代の人間一生分の情報に1年で触れる時代だと言われています。生成AIが生前の人間の手癖や作風、情動まで学んだ結果、製作者も出演者も亡くなってしまったドラマの続編が、テイストやエッセンスはもちろん生前そのままの姿形や風景のまま、延々と続編が制作されるような時代が来ているとも言われています。その為、膨大な情報にアクセスしたり知見を得るには圧倒的に時間が足りなくなっているとも言われます。タイパ・コスパ主義もむべなるかなという現代。
VRによって圧縮された時間でそれを体験するとか、そもそも完成された情報をデータとしてインストールできるとか、技術で保管できる面はありそうですが…。いずれにしろ人間が取り込んで処理できる情報量やあるいは意識には拡張を施しても限界があるという課題は残りそうです。
ファンタジー小説の草分け「ロードス島戦記」では魔力によって意識をサークレットに封じた魔女カーラが何百年も時を越えて、他人の肉体を乗っ取りながら生き永らえ、歴史のバランスを「魔力で栄えた古代王国の崩壊が起きた時、虐げられていた蛮族が剣の力で虐殺した」という結末。つまりどちらか1つに極端に力が偏った結果起こったカタストロフを防ぐために中道のバランスをとるよう歴史に介入し続けるという展開が描かれました。
しかし、カーラの意識自体は既に死んでおり、ただ最初の目的であった「歴史のバランスを取る」という命題だけを続ける概念のような存在になってしまっていたと作中で指摘されています。
現在、医療の進歩で人間の寿命が延びるどころか各器官を活性化させて、若返る技術すら出てくるのではと言われています。今後1年生きていく毎に1年寿命が延びる時代だとも。どれだけ情報が溢れていく時代。先に述べた意識のインストールや拡張のような技術も提唱されています。しかしそれでも人間そのものベースとなる意識の限界は、それらSF小説の例などをみても120年ほどが限界なのかもしれません。
記憶を作っていく事の意味
もはや海外までも知名度を伸ばしたヒット漫画「進撃の巨人」では先の「記憶」を巡るこれもまた示唆的な結末での描写がありました。人類を捕食する巨人に対して壁の内側まで後退した人類が巨人を打ち倒し、外の世界へと歩んでいく過程を調査兵団の視点で進めていく国民的人気漫画でもある本作。以下結末部のネタバレを含んで話を進めます。
終盤では巨人化する能力を経て、島の外まで到達するエレン達一行。壁外にいた人類との共存や対立の思惑が渦巻く中、歴代の巨人の記憶を持つ始祖ユミルに導かれ、人類を踏み潰す「地鳴らし」を発動する主人公エレン。終盤では主人公がまさかの人類の敵になってしまうという衝撃の展開へと至りました。しかし、仲間であり幼馴染であるアルミンなど調査兵団一行に撃たれる事も同時に覚悟していたエレンは地鳴らしの決行前夜にアルミンと対面していた事が後日談で描写されています。
この最後のやりとりの中、あえて悪を演じる事で、世界と仲間たちを救う意思があった事をアルミンに告げるエレン。その場に居合わせたエレンの兄のジークは一連のやりとりの中で、幼い頃にキャッチボールをしていた何気ない瞬間が幸せだったと語り、アルミンもエレンと幼い頃に丘の上の木に向かって走っていた何気ない瞬間が忘れられないと語るのでした。
https://www.youtube.com/watch?v=LOAQVm8vVUk
その後、地鳴らしはエレンの幼馴染であるアルミンやミカサの手によって止められ、その後数百年は巨人の脅威の去った中で人類の再興も進み、平和な時代が訪れるのですが、やがて世の中は再び戦乱を繰り返す兆しを見せる。そんな中エレンが埋められたその丘の上の木だけは変わらずそこに佇んでいる…そんなところで物語は幕を閉じます。アニメや原作で多少描写の差異はありますが、これが概ね本編のラストにかかる話。
ここで重要なのは、どれだけ人が奮起しても影響力を当たられるのは自分たちが生きた時代、生きた場所を守りよりよくして孫の時代あたりまでその影響を繋ぐのが精一杯という事です。何よりその結果ではなく過程をどう辿ったかが重要という事なのかもしれません。同時に忘れられない記憶をたくさん作っていく事。
個人的な事ですが旅行に行く計画を立てても目的地についた瞬間より、その旅行にいく前日のワクワクした気持ちだったり、旅先でみた何気ない風景だったり、道中でした他愛もない会話が案外記憶に残っている事が多かったりします。目的地が案外肩透かしであったとしても、その過程で特別な瞬間やいい景色が見られていれば、それが何物にも代えがたいものになっているという事。
それは旅行に限らずなにかの目標や課題を形にしていく事に全て共通して言える事で。楽しい事だけでなく、苦しい事や悲しい事含めて、そのように印象深い記憶をどれだけ作れたかが、後悔なく人生を過ごす流れであり、生きる事の本当の目的なのかもしれません。
終わりなき日常
戦後の日本は現実と虚構の狭間で揺れ動いてきたとも言われています。社会学者の宮台真司は冷戦構造の核の傘の中で変わらない日常をまったり生きろとかつて提唱していました。
これのモデルとして分かりやすいのがアニメ監督で有名な押井守の作風です。年を取らない主人公たちの学園生活に宇宙人やら戦車やらの非日常が当たり前のように登場するうる星やつらの監督で注目を浴びその現実と虚構の構図をメタ的に崩す劇場版で注目を集め出し以降、都市論や自我を軸に「現実と虚構」をテーマにし、以降これをテーマにした難解な映画を撮っていきました。
https://www.youtube.com/watch?v=O21bxZrHvY8
その押井守が最後にアニメとして監督したのが森博嗣の小説を原作にした「スカイクロラ」です。戦争がショーと化した世界で年を取らない主人公たちが戦士として駆り出されてる世界が舞台。その最後のあたりで印象深い台詞が続きます。
「いつも通る道でも 通るところを選んで歩くことが出来る いつも通る道だからって 景色は同じじゃない それだけでは いけないのか」
若い時は何事にも刺激を感じるものですが、やがては驚きや感動は薄くなっていき、同じような日常の反復という現実が人生のウェイトを締めるようになってきます。そこに僅かの変化レベルでも楽しさや発見と言う虚構を見出していく事が、幸せの本質だとか年を取ると大事になってくると言う事なのかもと(押井守は自分が伝えたい事はこの映画が到達点、そして若い人に見て欲しいと述べてます)
押井守といえばウィザードリィフリークでも有名ですが、例えばRPGの本質(キャラメイキング、探索、成長、ドロップ)などは実はこのWIZの時点ですべて入ってる。そのゲーム性はまさに反復とも言えます。そして、そこにこそ楽しさを見出すコンテンツだと思います。(WIZ個人的に地味すぎて、なかなか馴染まなかったりもするのですが熱烈なフリークがいるのも分かる感じです)
そこに新システムや演出やキャラクターを盛ってくのが、それ以降のRPGの進化であり、その中でアップデートされたものも数多いのですが、時代の流れの中でどうしてもストーリーやキャラクターは時代ががって見えてしまったり、あるいはかえってやれる事が多くなって手間が増えただけと批判を受けたりする事もまた多いですよね。余計なものをそぎ落としていくとけっきょくWIZになるという側面はあると思います。
些細な日常の反復の中で
個人的に大好きなゲームに「夕闇通り探検隊」があります。いまの一定の世代なら平成頃の郊外的な街並みの風景に郷愁を感じる人も多いと思いますが、思春期である主人公3人組が、学校生活と並行して放課後の郊外を散策し、学校内で噂される都市伝説的な物を探っていくという内容。東京の日野市を舞台としたとされています。主人公たちを取り巻くドラマも魅力にはなっていますが、このゲームなどはまさにその何気ない風景の中に潜む非日常や不思議を描いている作品と言えるかもしれません。ある意味つげ義春的な魅力があるw
マンガ家の押切蓮介はこのゲームを愛好し、友人と街の変わった風景を巡って散策するのが趣味になったようです。
さて、序盤で触れた「真理」に到達する進化のようなものがある意味西欧的なベースの考えであるなら、こうした緩やかな日常やありふれたものに魅力を見出すもの、言うなれば「禅的」な、つまり本質的なものを追求したり、地味な反復である日常の中に意味を見出してく思考は割とこれからは大事なのかもと…一周廻ってそんな考えに行きつきました。
孤独のグルメが劇場版の入りが地味にいいという事は、割とそういう些細な日常、何気ない日常の中に楽しさを見出すスタンスの人が増えてきているという事なのかもしれませんね。