「怒り」をきっかけに、自分と向き合えそうな気がしてきた
私は20代前半ごろからずっと受け身で受動的な生き方をしてきた。
我を通して批判されたりダメだった時のダメージを考えたら、初めから誰かの言うことに沿って生きた方が何十倍もマシだ。
そうして生きてきて気付けば、どこかの誰かの「こうあるべき」「これはダメ」など、他人にとっての正解、価値観をこれでもかというほど取り込んでいた。
夫を大切にせねば。
良い嫁であらねば。
義理の家族に受け入れられなければ。
人としてちゃんとせねば。
仕事で会社に貢献せねば。
社会の務めを果たさなければ。
ねば、ねば、ねば…。
「ねば」で心の中がずっと忙しい。
解決策が分からないまま夫と出会って結婚し、同棲生活がスタートした。
すると、ちょっとしたことで荒れ狂うように怒るようになったのだ。自分でもコントロールが出来ず、夫を傷付け、途方に暮れた。
色々自分なりに努力はしたが、中々怒りのコントロールは出来ず、ついに自分だけで何とかすることを諦めてカウンセリングを受けるようになった。
今はカウンセリングのおかげでだいぶ自分のことを客観的に見れるようになってきて、メンタルも落ち着いている。カウンセラーさんには本当に感謝しかない。やっぱ人間、1人じゃ生きられんわ。
ただ、「怒り」については未だに振り回されることが多く、頭では分かっているはずなのに翻弄される自分がいて、どうしたものかと思っていた。
カウンセラーさんには何度も、「怒り」は否定せずに受け入れましょうと言われてきた。怒りは二次感情であり、その元には相手への期待や欲求があるから、それを手放しましょうとも教えて貰えた。でも、いざ怒りが湧いてくると、頭では分かっていてもやはり怒りに呑まれてしまうのだ。
しかし、ついこの前、鬱病の人が回復する過程で「怒り」や「イライラ」が発生するということを知った。それは大事な回復過程であって、そういう感情を抱いている自分を責めなくていいのだそうだ。
ということは、「怒り」とは生物として必要なものだということではないか。
本能がきちんと機能している証拠でもあり、生存を目的とするならば欠かせない大切なものなのでは?
だとしたら、怒りを抱いた自分を責めるなど本当にお門違いではないか。
カウンセラーさんの言っていた、「受け入れる」とは言うことはこういうことか!!と思った。
「受け入れる」という言葉だけでは「怒り」に対する劣等感が拭いきれなかったが、生物としての本能が機能しているだけと捉えたら、「じゃあしゃーないか。むしろ正常な証拠やん」と腹落ちした。
実際に、夫に怒りが湧いた時に「生物としての本能が正常に機能している!!」と自分に言い聞かせ、自己否定しないように気をつけたら驚くほどスムーズに怒りはフェードアウトしていった。
逆に、怒りが増幅して激しく夫に当たってしまう時は、怒りを抱いた自分に失望して自己否定している時だった。怒り自体が厄介なのではない。自己否定が怒りを暴走させて厄介なものに仕立て上げているんだ。
そしてだ。
「怒り」以外の感情も同じように受け入れていいということにならないだろうか。
「怒り」以外の感情も価値付ける必要はないし、比べる意味もない。
だって生物としての本能が機能した結果なだけだから。
虫に、「光に寄ってくるな!」って言うのと同じくらい不毛な気がする。
こうあらねばこう生きねばと、他人の価値観に縛られてそれに添えない自分をずっとずっと責めていたが、人間の社会生活を送る上では参考にはしても、自分の感情、心はありのままを見てあげていいんじゃないか。
恐がらずに、自分自身の感覚を取り戻していいんじゃないか。
そう考えると気持ちがフワッと上がり、「じゃあ、私の感覚でいいなら、これから何しようか!」という気持ちが湧いてきたのだ。
こんな気持ちになったのは、子供の頃以来だ。
私は私で良いのだ。
これからの私は何をするんだろう。
何かしてもいいし、しなくてもいい。
どこに行きたいんだろう。
行ってもいいし行かなくてもいい。
全部、自分でいいんだ。価値付けする必要はないのだから。
なんだか、やっと水面に顔を出せた気がする。