「意識高い系」という揶揄への違和感
皆さんどうも。
ラップする起業家こと田中颯馬です。
スタバでMacなんて典型ですが
「意識高い系」と揶揄されたことはありませんか?
この言葉って文面で見るとほめてるようにも見える。
ですが言ってる本人たちは割と悪意を込めて言ってるんですよね、、、
私にとって少し違和感のある言葉なんですよね。
そんな「意識高い系」という言葉について私なりの見解を述べていこうかなと思います。
まず、私は現在起業家として様々なことをするためにインプット、アウトプットにも力を入れています。
そして、Twitterはじめ交流のある人たちもそうですが
様々なものを駆使してインプット、アウトプットをしています。
Twitterであったりリアルであったり
ほんとにいろんな手段でやってると思います。
そしてこれらの行為をする人たちに対して
「意識高い系〇〇」といわれるみたいなことがあるんですよね。
じゃあそもそもこの「意識高い系」意識って何なのか。
何に対する意識なのか。
まずここで一つ目の違和感。
おそらくですけど将来設計とか生き方とか働き方、社会でどう戦っていくかなんかを考えてる思考力、行動力、探求力なんかを総称して「意識」という言葉に表しているのではないか。
っていうのが私の仮説です。
そして、その意識が高いというのですけど、、、
何と比べてんの?
って思うのです。
高い低いの判断基準がどこにあるのかということです。
自分もしくは自分の所属するコミュニティーから見て高いっていう判断なんでしょうけど。
それって自分が低いってことを認めてません?
人を揶揄するために自分まで下げる意味ありますかね?
と思うのです。
そして、なりより揶揄されてる側はノーダメージです恐らく。
これってほんとに無意味でしかなくないですか?
やる人たちって何言われてもやってますし。
人間的な習性で知らないもの、経験のないものを無意識で恐れるってのは仕方ない部分もあるかもしれません。
でも経験しないと視野がひろがらない。
こんだけ多様性が社会で叫ばれてる中で
まだ偏見のコレクションだけで過ごすのですか?
と思うのです。
別にみんながみんな意識が高い必要はないと思います。
ですけど、わざわざ頑張っている人たちを揶揄する必要はないと思うのです。双方にメリットはありませんから。
他人のやってることを批判する権利は誰にもありません。
なので私は揶揄する側の人たちに意見はしますが強要はしません。
ここまで読んでくださった方の考え方や人生哲学が1mmでも変わることがあれば幸いです。
最後に一言ですけど、起業とかインターンとかブログとかインプット、アウトプットとかやってみると案外楽しいもんですし
新しい自分に出会えるかもしれませんよ。
京都生まれ京都育ち京都好きなやつやつ大体友達(嘘ですw) 現在は京都の宿泊施設に関係したサービスを展開予定です。 一応起業家兼ラッパー、欅坂46、乃木坂46