見出し画像

ささやかな私信

先日、note更新100日を迎えた際、以下の投稿をした。

noteを通じて、「考えること」へのウェイトが上がってきたことを書いた。
今日は、それにちょこっと付け足しをしたい。

言うまでもなく、人は言葉に救われることもある一方、傷つけられることもある。言葉は「取扱い注意」の代物だ。
例え私という世界の片隅にいる人間の投稿に綴られた言葉であっても、知らず知らずのうちに誰かのことを傷つけてしまっているかもしれない。その意味で、よく言われることではあるが「書くことには責任が伴う」。

こんなことを書くと、「あなたの投稿によって傷つけられました」という訴えがあったかと思われるかもしれないが、そうではない。むしろ、「いつも読んでいるよ」と温かい言葉をかけていただく機会に恵まれている。
でも、いや、だからこそ、自分の言葉に自覚的でなくてはと思うのだ。

はたまたこんなことを書くと、「責任を持つことに重荷を感じているの?」と思われるかもしれないが、これまたそうではない。むしろ、責任を持てることに喜びすら感じている。責任を自覚すればするほど「言葉を生業にしている」実感が持てる。「言葉で生きる」、これすなわち私の夢(はじめ、「言葉を生きる」「言葉に生きる」とも勢いで書いたが、それぞれの意味について改めて考える必要を感じたので、割愛した)。ちなみに、私にとって「言葉で生きる」とは「書くこと」に限らない。「読むこと」も、「考えること」も言葉。

さて、そんな私はこうして記事を書いている時、比喩的にではなく本当に、見知っている限りの、読んでくださる方の「顔」を思い浮かべながら筆を進めている。実際にお会いしたことのある方ならそのお顔を、お会いしたことのない方なら例えばnoteのアイコンや文章から感じられる人となりの像を思う。そして、「この部分はあの人の心に響いてくれるかな」とか、「この部分があの人の考えるヒントにならないかな」などと考える。
そうすると、書いている私もなんだか楽しくなって、気づけば書きながら微笑んでいることもしばしば。これが、私がここに投稿を続ける理由の一つかもしれない。

「ささやかな私信」として書き始めたけれど、書き上げてみればあら不思議、皆さんへのラヴレターとなっていた。

もし何かに共感していただけたら、それだけでもとても嬉しいです。いただいたお金は、他の方の応援に使わせていただきます。