夏の亡霊は美少女だった 第十一話
***
商店街の祭りに行った後、ヒナはことあるごとに公太に人助けをさせるようになった。道に迷っている人を見つけては、案内させる。落とし物を探している人を見つけては、一緒に探させる。祭りに行った日から、たった二日間で手助けした人数は、片手の指では収まらないくらいだった。アパートからコンビニやスーパーまでの途中、10分にも満たない道ですら困っている人を見つけてくるのだから、ヒナは何か特殊な才能を持っているのではないか、と公太は思った。
「ありがとうな、兄ちゃん」
「いえいえー、どういたしまして」
肩から腕にかけて入れ墨を刻んだ強面の男性に礼を言われ、公太はその背中を見送った。道に迷っているところをヒナが見つけ、誘導された公太は道を教えたところだった。
礼を言われることにも慣れてきたのか、「どういたしまして」などと軽く返せるようになっていた。
「ね、コウちゃん時間は大丈夫?」
「ん? ああ、大丈夫だろ」
この日は、美雪とデートの約束をしていた。今は待ち合わせの場所に向かっているところだった。例によって、喫茶店『ゴーシュ』。このままいくと5分くらい約束の時間に遅れそうだったが、美雪もたいてい5分くらい遅れてくるからちょうど良いくらいだと思っていた。
「コウちゃんもさ、なんか変わってきたよね」
「そうか?」
「どういたしましてー、なんてさ、最初は恥ずかしがって言えなかったでしょ」
「……まあ、そうかもな」
感謝され慣れる。言葉にするとずいぶん俗っぽい気がしてくるが、その通りかもしれないと思った。
「ま、それもヒナのおかげだな」
「えへへっ、どういたしまして」
公太とヒナは、顔を見合わせて笑った。
しばらくして待ち合わせの喫茶店に着くと、美雪は公太よりも先に着いていたようだった。既に美雪が座っているテーブルに、公太が近付く。
「遅い」
美雪は、公太が椅子に座った瞬間に言った。
「ごめん」
「寝坊でもしたの?」
「いや、ちょっと来る途中で迷ってる人がいてさ。道を教えてた」
「え? 公太ってそういう感じだったっけ?」
「んー」
「っていうか、なんで遅れるってメールとかくれないの?」
「あぁ……ごめん」
これはずいぶんとお冠である。いつも美雪が遅れてくるから今日も遅れてくると思った、とは口が裂けても言えなかった。
普段なら水を持ってくるついでに店長が声を掛けてきそうなところだったが、今日は空気を察したのか店長は奥にこもりっぱなしのようだった。かわりに、若い店員が水を持ってきてテーブルの上に置くと、早々に退散していった。
横を見ると、少し離れたところでヒナが両手を合わせて拝むような姿勢で、公太に謝っていた。そうだ、ヒナも原因のひとつなのだ。道に迷っている人を見つけてこなければ、待ち合わせに遅れることもなかった。
「公太、なんか最近変わったよね」
視線を泳がせる公太に、美雪は言った。声の雰囲気から、良い意味で言っていないであろうことは公太にも容易に感じ取れた。
「メールとかもあんまり返してくれなくなったし」
「そ、そうかな」
「今日は遅れてくるし」
「たまたま。たまたまだよ」
事故の前後で、そこまで自分が変わっただろうかと公太は考えた。たしかに環境は変わった。バイクは失ったし、バイクに対する情熱も失った。そしてなぜかヒナという同居人が増えた。
だが、公太自身は自分がそこまで大きく変わったとは思っていない。きっと、今日の美雪は虫の居所が悪いのだろう、と思った。女の子なんだから、そういう日だってある。今までも、機嫌の悪い時などいくらでもあった。
「ねえ……公太、もう私のことどうでもいいの?」
「は?」
だが、かつての機嫌の悪い日とは違って、雲行きが怪しくなっていることを感じた。今まで付き合ってきて、こんなことを美雪が言い出すのは初めてだった。機嫌が悪いというより、情緒不安定のように感じる。
「美雪、何かあったのか?」
「質問してるのは私なんだけど」
「う……」
公太は口ごもった。
「……どうでもいいわけないだろ」
「公太、私のほうが聞きたいんだけど、何かあったの?」
「いや……それはほら、事故に遭ったよ」
「その事故ってホントなの? ホントはどこか行ってたんじゃないの?」
「は? どこかって、病院だよ。なんでそう思うんだよ」
「だって……おかしいんだもん」
美雪はそう言うとうつむいた。なんなら壊れたバイクの話をみやたサイクルに聞きに行ったって良いし、病院に行って医者に話を聞いても良い、と公太は思ったが、そこまで言う気にはならなかった。なぜ尋問のようなことをされなければならないのか、わけがわからなかった。
いつの間にか、コップの水は空になっていた。何か飲み物がほしい。そういえば店長も店員も、注文を取りに来ていない。
公太が助けを求めるようにカウンターのほうを見ると、離れて様子を窺っていたらしい店長を目があった。だが、目が合った瞬間に店長は肩をすくめて目を逸らし、カウンターの奥に引っ込んでしまった。
「どこ見てんの?」
「ああ、いや、注文取りに来ないなって思って」
「……」
口は災いの元である。自分との会話に集中していないと思ったのか、美雪はさらに不機嫌になったようだった。
「どうしたんだよ美雪、なんかおかしいぞ」
「おかしいのは公太のほうだって、絶対そう」
「いや、そう言われても……」
公太には、ここまで美雪が怒っている意味がわからなかった。美雪は自分にどう返事をしてほしいのか、何を説明すれば納得してくれるのか。全く理解できないことに、公太にも苛立ちが募り始めていた。
「私、帰るから」
「は?」
「公太と話したくない」
「いや、ちょっ……」
返事を待たずに、美雪は椅子から立ち上がるとまっすぐに店の入口に向かって行った。公太が呆気にとられていると、美雪は一度だけ公太のことを振り向くと、そのまま店の外へ出て行ってしまった。
「えぇ……」
少し椅子から浮かしていた腰をストンと落とすと、公太は背もたれに体重を預けてひとりごちた。
「なんで?」
公太が呆然としていると、水を持った店長が近付いてきた。
「やあ、いらっしゃい。どうかしたのかい?」
公太は何も言わずに、テーブルの上に置かれたコップを掴んで水を飲み干した。氷だけになったコップをテーブルに置く時に、思いの外大きい音が出てしまった。
店長は肩をすくめると、空のコップを持って店の奥に戻っていった。
「コウちゃん、何やってんの?」
「え?」
公太が顔を上げると、ヒナが少し怒ったような顔をしていた。
「追いかけなきゃダメでしょ」
「は?」
「私帰る、なんて言われたら、追いかけてこう、ガッと後ろから腕を掴んで、あわよくば抱きしめるのが常識でしょ」
もやもやとジェスチャーしながら説明するヒナに、公太は呆れた。
「街中で?」
「街中でだよ!」
「意味わかんね……」
「いいから早く行きなよ!」
ヒナにけしかけられ、公太は重い腰を上げた。小走りで店の入口まで行くと、店長に向かって声を掛けようとした。だが、特に何も注文していなかったし、さっきの店長の態度が気に食わなかったことを思い出した。店員に向かって挨拶代わりに片手をあげて、公太は店を出た。
だが、公太が外に出た頃には、すでに美雪の姿はどこにも見当たらなかった。蝉の声だけが、虚しく響いていた。
***
携帯電話を開く。受信メール。新着メール、無し。
喫茶店『ゴーシュ』で美雪が公太を置いて出ていってしまった日から、あっという間に5日ほどが経っていた。
公太は他にやることもなく、毎日のようにヒナとの散歩を繰り返していた。相変わらず、ヒナは困っている人を見つけては公太に知らせてきた。飼い主がリードを手放してしまい逃げた犬を追いかけたり、財布を落として小銭をぶちまけた人が硬貨を拾うのを手伝ったり、熱中症で倒れた人がいたので救急車が来るまで付き添ったりしていた。
そして一度、ヒナの墓参りにも行ってみた。前にヒナが言っていた通り、ヒナが住んでいた地域は歩いて一時間くらいで、たしかに歩いて行けるくらいの距離ではあった。墓石には『水木家』と彫られていた。生前の名字は水木だったのか、と聞くとヒナは少し恥ずかしそうにしていた。一応卒塔婆も見てみたが、どれがヒナのものなのかはよくわからなかった。
実は、墓参りでもすればヒナが成仏するのではないかと公太は少し思っていたが、公太が墓参りに行ったあとも、ヒナに変化はないようだった。既にヒナとの同居にも慣れてしまってはいたが、ずっとこのままで良いのだろうか、という思いはあった。
「たぶん美雪ちゃんはさ、コウちゃんが浮気してると思ったんじゃないかな」
「……それ、何回目だよ」
ここ数日、ヒナは同様のことを何度も公太に言っていた。浮気をしているなど、言い掛かりも甚だしいところだ。仮に幽霊と同居しているからといって、それが浮気にあたるのだろうか? そもそも浮気しているなどという根拠はなんなのか。
あれから公太は何度か美雪に電話を掛けたりメールを送ったりしたが、美雪からの応答は一切なかった。何か事情を知っているかもしれないと思い、洋二にも「美雪とケンカしたかもしれない」とメールをしてみたが、返事はなかった。
もっとも、美雪にメールを送ったのは公太だけの意思ではない。一方的に機嫌を悪くしていた美雪だったが、公太もまたその理不尽さに対する怒りは収まりきっていなかった。メールをしたのは、ヒナが「仲直りしなきゃダメだよ」と何度も言ってきたので、ヒナのアドバイスに従って送った、というのがほとんどだ。だが、それでも返信はなかった。
「ヒナのことは、俺以外の人間には見えないんだよな?」
「んー……たぶんね」
「多分か……」
ヒナがどこまで本気なのかはわからなかったが、実際に今までヒナのことが見えている様子の人間を見た覚えはなかった。道行く猫や犬ですら、ヒナの存在を感じ取っている様子は見られなかったのだ。よく猫は何もない場所を見ていて霊的な存在を見ているのではないか、という話を聞くことがあったが、それもまるで信用ならないな、と公太は思っていた。
ヒナは、日に日に公太の前に姿を現している時間が長くなっているような気がした。今はもう日も落ちて、外はすっかり暗くなっている。以前なら既にヒナが姿を消していた時間帯だが、この数日間はずっとこの時間になっても姿を見せていた。
「なんで俺が浮気とか考えるかなー」
「あたしの勘だけどねー、たぶんそうだよ」
「メールの返信しなかったから?」
「まあ……そうかな」
「そんなバカな……」
交通事故でまるまる三日間意識がなかったのだから、それくらいは多目に見てほしいところだ。だが、それが美雪の逆鱗に触れてしまったというのなら、もはや公太には謝ることしかできないだろう。
これまでケンカらしいケンカをしたことなどなかったから、実際のところ公太はこの状況に戸惑っていた。今までは、美雪が不機嫌になることはあってものらりくらりと躱してきた。公太自身も、多少不満を感じたことはあれど、美雪に対して怒ったことはなかった。明確に距離を感じるのは、初めてのことだった。
「でもまあ、寂しいとかはないかな……同居人もできたし」
「ん? あたしのこと?」
公太の独り言に、ヒナが反応した。
「あたしも人にカウントされるのかな?」
「あー……それは微妙かも」
「ひどいなぁ」
「ははっ」
公太とヒナが笑っていると、公太の携帯電話が鳴った。メールの着信音だった。
送信元は、美雪。昨日送ったメールに対する返信だろうか。
「美雪ちゃんから? なんて書いてあるの?」
公太はメールを読んだあと、携帯電話の画面をヒナに見せた。
『明日、あのお店で会おうよ。話がしたい』
あのお店とは、例の喫茶店『ゴーシュ』のことだろう。短く書かれたメールからは、デートや楽しいおしゃべりがしたいという気持ちはとても感じられなかった。
「あぁ……これはなんていうか、ご愁傷様だね……」
ヒナの残念そうな声を聞いて、公太は眉間に指を当てた。思わず大きなため息が出てしまうのを、公太は抑えることができなかった。
***
美雪からメールが返ってきた翌日。公太が喫茶店『ゴーシュ』に着くと、そこには美雪だけではない意外な顔もあった。
「よ、久しぶり」
四人掛けのテーブルで美雪と並んで座っていたのは、同じ学科で遊び仲間の洋二だった。
椅子に座っていると頭半分くらい、美雪よりも低い。背の低い洋二が、底が厚めの靴を好んで履いていることを公太は知っていたが、座ってしまえばそのごまかしも効かないのだった。
「……なんで洋二が?」
「まあ、とりあえず座れよ」
洋二に促され、公太は美雪の正面の椅子に座った。美雪は、テーブルに向かって歩いていた公太のことを一度見た後は、うつむいたままだった。
「なんか頼むか」
「そうだな……んじゃ、アイスコーヒーで」
「すみませーん」
洋二は店の奥に向かって声を掛けると、水を持ってきた店員にアイスコーヒーを頼んだ。美雪と洋二の前には、既に注文していたらしい飲み物が置かれていた。けっこう前からここに来て、公太のことを待っていたらしい。公太がカウンターのほうの様子を窺うと、店長は今日も奥に引っ込んだままのようだった。
三人が無言のまま待っていると、ほどなくして店員がアイスコーヒーを持ってきた。店員がテーブルの上にコーヒーを置いたあとも、沈黙はしばらく続いた。空気が重かった。
公太が二口ほどコーヒーを飲んだ頃、美雪が意を決したように顔を上げ、沈黙を破った。
「あのね……公太、話があるの」
「うん」
「私たち、別れよう」
端的に言った美雪の言葉に、公太は胸が痛むのを感じた。ここに来るまでに、想像していたことではあった。楽しくない話題であろうことは予想できていた。それでも、実際に言われると苦しい。
それと同時に、行き場のない怒りを感じる。自分に落ち度があったか? どこかで対応を間違えたのか? 答えの無い疑問が頭の中を駆け巡る。
たっぷりと時間をかけて美雪の言葉を咀嚼した公太は、ふたたび飲み物を一口飲んでから咳払いを一つした。
「なんで洋二がいるんだ?」
「それは……」
「お前が悪い」
美雪の言葉を遮るように、洋二が言った。公太はムッとしたが、そのまま何か言おうとしている様子の洋二に、先を促した。
「公太、お前美雪のメール無視したろ? その後もろくにメール返さなかったって」
「だから、それは事故で意識不明に……」
「それもホントかどうか怪しいもんだろ。そんなデカい事故にあって、なんでそんなにピンピンしてんだよ」
そんなことを言われても、公太には返す言葉がなかった。事実なのだから、他に言い様が無い。
「美雪も、悩んでたよ。これから公太とやっていける気がしない、って」
洋二の言葉を聞きながら、公太は違和感を感じていた。洋二は、普段から美雪のことを下の名前で呼んでいただろうか? いつも名字の『斉藤』と呼んでいなかったか? なんとなく、嫌な予感を感じていた。
「それで、公太と仲良いし、俺が相談に乗ってたのよ」
「……」
「それでまあ、俺と美雪が付き合うことになったから」
「は?」
全く脈絡を感じない洋二の言い方に、公太は気が抜けたような声を出した。
ふと気がつくと、美雪と洋二が座っている椅子の後ろにヒナが立って、アチャーと言うような顔で額に手を当てていた。その様子を見て、公太は一層苛立った。
「いや、どうしてそうなるのか全然わからない」
「結局、美雪はもう公太のことを信用できないってさ」
何が『結局』なのか、公太には全く理解できなかった。
「洋二は……ちゃんと話聞いてくれたから」
美雪は普段と違ってしおらしい様子で、小さい声で呟いた。
「おま……」
「そういうことで、美雪とはもう別れてくれ」
そういうこと、と言われても、どういうことなのかわからなかった。間がずいぶんと省略されていないか? 何かすっ飛ばされてないか? 俺だけ蚊帳の外に追い出されているのではないか? 公太の頭の中は混乱してぐちゃぐちゃになっていた。
「えっと……いや、納得いかないですけど?」
「公太さ、お前が納得するかどうかはもう関係ないんだよ」
「は……え? あ、そうですか」
公太の口調はなぜか丁寧語になっていた。既に冷静でいられる許容量はとっくに超えていた。視界がぐるぐると回っている気さえしてくる。展開が早すぎる。何が起きているのか、まったくついていけない。公太は何かを言おうとして口をぱくぱくとさせていたが、言うべき言葉が何も見つからず、ただ口を空回りさせるだけだった。
「もうダメかこりゃ……行こうぜ、美雪」
「うん……ごめんね、公太」
「金は払っとくからな」
洋二は公太に向かってそう言い残すと、さっさとレジカウンターで3人分の会計を済ませていた。そしてそのまま、二人は揃って店を後にしていった。
公太はただ呆然と、足早に去っていく二人を見送ることしかできなかった。
「謝るくらいなら別れんなばーか!」
店を出て行く美雪の背中に向かってヒナが罵倒している声を、公太は上の空で聞いていた。
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