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夏の亡霊は美少女だった 第二話

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 病室を出て、建物外の非常階段へ続く扉がある廊下の突き当たりまでゆっくりと歩いていく。首にはギプスのような固定器具が巻かれている。

 公太が目覚めてから、既に一日が経過していた。あの後ナースコールに応じて現れた看護士は、公太の三日ぶりの目覚めを喜ぶ様子もなく、淡々とした様子で仕事を進めた。医師がやってきて数度の問診を経て、公太が一通り歩いたり動いたり、といった日常生活ができることが確認されると、その数時間後には尿道カテーテルの抜去が行われた。

 身体の方は、打撲や擦り傷などはあったものの、事故に遭った当時、長袖のジャンパーを着ていたことが幸いしたのか、骨折のような大きな怪我もなく、首のむち打ちが最大の症状だった。もっとも、たいした外傷がないにも関わらず意識がなかったことは気にしているようだった。医師の薦めもあり、今日は午後から脳の検査などをする予定だった。その検査で異常がなければ、すぐに退院できるらしい。

 意識を取り戻したことを知らされた公太の母も、着替えを持って一度病院に来たが、すぐに退院できそうなことを聞くと安堵した顔を見せていた。公太が病院に運び込まれた日の夜には両親とも実家から急いで駆け付けていたとのことだが、父は仕事のため、翌日には戻っていったらしい。病院の近くのホテルに宿をとっていた母だったが、今日の検査に問題がなければ夜には実家に戻るつもりのようだ。先に帰って一人でいる父のことも心配そうな様子だった。

「あー、まだ痛い……」

 カテーテルを抜いた尿道には、一日経ってもいまだに痛みが残っている。抜去は医師が力ずくで抜き取るだけの単純な作業だった。あまりの痛みに公太は涙目になりながら声をあげたが、医師も看護士もまるで日常茶飯事かのごとく、眉ひとつ動かさずに作業をしていた。秘部から抜き取られたカテーテルは、驚くほど長かった。どれだけ深く挿されていたのか、想像しかけて公太は首を振った。

 病室から持ち出してきた携帯電話を開く。二つ折りの携帯電話は事故でも壊れることなく、病院に運び込まれた際に電源だけ切られていたようだ。病室を出る際に電源を入れたので、画面は既に起動している。電池はまだ半分以上残っていた。

 特に暗証番号などを設定していない画面を開くと、メールが3件ほど受信されていた。1件は、同じ学科の友人の洋二から。2件は、恋人の美雪からのものだった。

 とりあえず洋二からのメールは置いておき、公太は美雪からのメールを開いた。一通目は、遠方から遊びに来ていたらしい彼女の姉と、近所の遊園地に遊びに行ったことが書かれていた。二人で並び、笑顔で写っている写真が添付されている。二通目は、返信がないことを心配するような内容。公太は返事を書こうと返信ボタンを押しメール作成画面を開いたが、メールを書きかけて指を止めた。終話ボタンを押して待受画面に戻し、電話帳を呼び出す。電話帳から「斉藤美雪」を探し、公太は通話ボタンを押した。

 コール音が数回鳴ったあとで、美雪が電話に出る。

『……もしもし?』

「あ、美雪?」

『公太? どうしたの?』

「あー、うん、メール返してなくてごめん」

『……』

 普段のやり取りはメールですることがほとんどだ。電話で話すことは滅多にない。公太はメールを打つのが面倒なことや、久しく美雪の声を聞いていなかったこともあって電話をかけたが、美雪はあまり気乗りしない様子だった。若干声が掠れているような気もするから、もしかしたら寝ていたのかもしれない。

「実は、その……ちょっとバイクで事故起こして、入院してた」

『えっ……大丈夫なの!?』

「うん、まぁ身体は動くし大きな怪我もしてないんだけど、三日くらい寝てた」

『寝てた、って……メールくらい返してくれてもいいじゃん』

「いや、寝てたっていうか、意識がなかったんだけど……」

『それ重傷じゃん!』

 それから公太は美雪に、事故にあってから今までのことを簡単に話した。事故で意識を失ったこと、目覚めたら三日が経っていたこと、検査に問題なければすぐに退院できること。美雪はお見舞いに行くと言い出したが、すぐに退院できそうだし、午後には母親が来そうだから、と公太が伝えるとしぶしぶ納得し、退院してから会おうという約束をした。オムツや尿道カテーテルのことについては、話さなかった。

「あ、そういえば美雪」

『なに?」

「うちの学科に、ヒナ、みたいな名前の子っていたっけ?」

 美雪も、公太と同じ大学の同じ学科に通っていた。そもそも公太と美雪が付き合い始めたのは、同じ学科の中でグループで遊んでいるうちに仲良くなり、周囲からの「お前ら付き合っちゃえば?」という声に乗っかったことがきっかけだった。教育学部で、男女の比率は半々程度。女子の中には、名前がわからない学生もいる。

『ヒナ? うーん、いないと思うけど。なんで?』

「やっぱいないか。なんか病院で知らない子に話し掛けられたんだけどさ。患者かな?」

『……さあ、知らない』

 美雪の声からは、いささか機嫌が悪くなった雰囲気が感じられた。

 ヒナの姿が消えてから今日まで、ヒナは公太の前に姿を現していない。患者かな、と公太は口にしたものの、服装も普通の格好で病人には見えなかった気がする。すでに記憶の中の顔もぼんやりとしてきており、もしかしたら目覚めたばかりのはっきりしない頭で、幻でも見たのかもしれない、と公太は思い始めていた。

『……公太?』

「ごめんごめん。それじゃ、また連絡する」

『うん、わかった』

 公太は携帯電話を耳に当てたまま、美雪が通話を切ったのを確認してから電話を耳から離した。寝間着の袖でディスプレイを拭き、あらためて画面を見る。公太は受信メールの画面を開くと、もう一通、友人の洋二から届いていたメールを開いた。

 洋二は、美雪も含めて一緒に遊んでいる同じ学科のグループの一人だ。公太にとっては、お互いに授業をサボる時には代返を頼んだり、相談ごとがあれば一番に頼る相手で、つまりは一番の友人だ。公太と美雪が付き合うきっかけになった「おまえらもう付き合っちゃえば?」という言葉も、最初に洋二が言い出したことを憶えている。

 メールには『明日みんなで飲みにでも行かね?』と書かれていた。届いていたのは三日前。ということは、昨日の予定だ。公太抜きで飲みにでも行っていたのかもしれない。美雪の声が寝起きのようだったのも、もしかしたら遅くまで盛り上がっていたせいかもしれない。

 公太は返信画面を開くと『すまん寝てた』とだけ書いてメールを送信した。言葉足らずも良いところだとは自分でも思ったが、次に会った時にでも話せば良いと思った。

 携帯電話を閉じて踵を返し、病室へ向かって廊下を歩いていく。電話をしている間は誰も公太の近くを通らなかったが、歩いているとちらほらと患者や看護士とすれ違う。公太は無意識のうちに、すれ違う人の顔を見てヒナがいるのではないかと確認していたが、それらしき人物は誰もいなかった。

 病室へ戻ってくると、公太はベッドに腰掛けた。壁際に置かれたデジタル時計を見ると、もうすぐ11時になる頃だった。

「手持ち無沙汰だな……」

 昼食の時間まで一時間以上あるだろうか。入院するとやることがないものだ、と公太は思った。何かしら読む本でも持ってきてくれるよう母に頼めば良かったかと思ったが、もうすぐ退院できそうだし今更だな、と公太は思い直した。

 ふと、人の気配を感じて公太は振り向いた。

「うおっ」

 いつの間にか、目の前にヒナがいた。公太から大人ひとり分くらいの距離を開けて、ベッドに腰掛けている。思わず声を出しながらのけぞった公太だったが、ヒナは驚く様子もなく微笑んでいる。公太のいるベッドは病室の入り口から一番近く、入り口側のカーテンは開けたままにしていたから、こっそり入ってきていたのかもしれない。

 それにしても、音も立てずに隣に座るとは趣味が悪い、と公太は思った。にこにこしているヒナの沈黙に耐えられず、とにかく何か喋ろうかと公太は思ったが、何を喋ったら良いのかわからず、言葉を探しながら口を開いた。

「なんていうか……神出鬼没、っていうのかな」

「あたしのこと?」

「うん」

 そう、ヒナはまさに神出鬼没だ、と公太は思った。昨日公太が目を覚ました時は最初からいたようだったが、いつの間にか消えていた。そして今日も、いつの間にか目の前に現れている。

 そもそも、このヒナと名乗る少女が何者なのかよくわかっていない。例えば昔の同級生であるとか、近所に住んでいた幼馴染とかで忘れてしまっている可能性も考えてはみたが、親しくしていた人たちのことはなんとなくは覚えていたし、その中にヒナという名前はなかった。つまり、心当たりがない。公太自身、知らない人と喋ることに抵抗はないが、こうもグイグイ来られると一歩引いてしまうのも事実だった。

 いったいヒナが何者なのか、他に喋ることもないこともあって、公太は思い切って尋ねることにした。

「ヒナは、ええと……俺の知り合いか何かなの? その、俺が忘れちゃってるんだったら、すまないなんだけど」

「ううん、昨日初めて喋った」

「あぁ、そう」

 細い髪を揺らしながら答えたヒナに、公太は拍子抜けした。初対面にしてはやけにフレンドリーだな、と気にはなったが、何も言わないでおいた。

「コウちゃんの同級生でもないし、ここの患者でもないよ」

 公太が次に何を聞くべきか考えていると、ヒナは自分から切り出した。

「じゃあ、なんで病院にいるの?」

「なんでって……それは、コウちゃんについてきたから」

「あぁ……もしかして事故を通報してくれたってこと?」

 そう聞き返しながら公太は、自分でもおかしなことを言っていると思った。事故に遭ったのは、五日ほど前の話だ。仮に事故現場を通りがかったヒナが、倒れている公太を発見して通報し、かつものすごくお人好しで救急車に同乗してきたとしても、今も病院に留まっている意味がわからない。

「実際に通報したのはあたしじゃないけど、まぁ、そんな感じかな」

「いやいや」

 思わず、公太は苦笑いしながら手を振った。首と肩の間あたりに少し痛みが走った。

「なんで今も病院にいるわけ?」

「それはほら、もうコウちゃんとあたしは一蓮托生みたいなものだから」

「えぇ……」

 いよいよヒナの言っていることの意味がわからなくなった公太は、何も言うことができなかった。公太は理解することを諦め、別の質問をすることにした。

「ところで、なんで俺のことをコウちゃんって呼ぶんだ?」

「それはコウちゃんのお母さんがそう呼んでたから」

「えっと……母さんと面識あるの?」

「うーん、面識はないかなあ。たぶん、お母さんのほうはあたしのこと見えてなかったと思うから」

 見えてなかった、という言い方に引っかかりを感じる公太。それほどまでに母は取り乱していたということだろうか。すぐに退院できそうだと聞いた時の安心した表情を思い出せば、それも有り得ない事ではないとも思ったが、違和感を感じざるを得なかった。

 公太が少しの間考え込んでいると、カーテンを開く音がした。公太のベッドのちょうど向かい側、反対の壁際にあるベッドを仕切るカーテンの開く音だった。公太のいる病室にベッドは6床あったが、そのうちのひとつで、初老の男性が足の骨を折って入院しているとのことだった。そのカーテンの横側が開き、骨折男性が顔を出している。

「おーい」

「あっ、はい」

 公太は男性から声をかけられ、返事をした。

「あのさ、さっきからちょっと声が気になるんだよね。少し静かにしてくれないかな」

「あ、はい、すんません」

 少し苛立った表情で注意してきた男性に対し、ヒナを避けるように身体を傾けながら、公太は素直に頭を下げた。

「ほら、ヒナも謝っとけよ」

 公太はヒナにも謝罪を促したが、ヒナはまるで不思議なものでも見つけたかのように公太の顔を見つめていた。骨折男性は公太とヒナに向けて注意してきたのだ。振り向きもしないというのは、どういう了見なのか。公太は申し訳なさを感じると、再び男性に向かって頭を下げた。

「すみません、気をつけるように言っときますんで」

「はぁ……?」

 公太はヒナの無礼も含めて謝罪したつもりだったが、予想とは裏腹に、男性の反応は淡白なものだった。まるでヒナのことは気にしていないどころか、公太のことを不思議なものでも見つけたかのような表情で見返していた。

「まぁ……うん、気をつけてくださいね」

 そして男性は公太から目を逸らしながら、声を小さくしながらカーテンの奥へ頭を引っ込めていった。いや、その反応はおかしくないか? 俺は常識的な対応をしたよな? 公太は無意識に首を傾げようとしたが、むち打ちのせいで固定された首は少ししか動かなかった。

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