カズは魔法使い 第九話
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和人が目を覚ますと、夜空に星が瞬いていた。肌寒い空気に、身体を震わせる。どうやら、気絶していたらしいことに気付く。たしか、岡島を抑えようとして魔法を使い、岡島にぶつけるつもりだった風を自分の背中で受けてしまったのだった。風をもろに受けてつんのめったところまでは覚えているのだが、そこから先の記憶がぷっつりと途絶えている。
「あ、起きた」
声がしたほうを見ると、汐梨が和人のことを見ていた。どうやら和人も、陽平と同じく庭に連れだされ芝生に寝かされていたらしい。だが、陽平はまだ目を覚ましていないようだった。汐梨の膝の上に頭を乗せて寝ている。
ふと、和人は自分の頭も何かの上に乗っていることに気付き、後頭部に手をやった。柔らかい感触にどきりとし、上半身を起き上がらせてその正体を確かめる。果たしてそれは、誰のものかはわからないが上着を丸めたものだった。
「あ、それ田嶋さんの上着だよ。何もないとアレだから、って」
「ああ、そう」
和人は汐梨の言葉を聞いて、再び汐梨の膝に目をやった。汐梨の膝の上にある陽平の安らかな顔が、妙に腹立たしかった。
「えっと……何がどうなったんだ?」
立ち上がって背中やズボンをはたきながら、和人は汐梨に向かって問い掛けた。陽平がまだ寝ているということは、おそらくそれほど時間は経っていないのだろう。
「みんな中にいるよ。さおりんも無事……だけど、今は疲れて寝ちゃってる」
「そうか」
事情は村木や田嶋に聞くほうが良いだろう。そう思った和人は岡島の家の中に向かおうとしたが、立ち止まって汐梨に声を掛けた。
「お前も、そんなところいると風邪ひくぞ。中に入ったらどうだ?」
「ん? んー……陽平が起きたら、ね」
「……」
和人はそれ以上は何も言う気にならず、建物の入り口へ向かって歩き出した。
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和人が岡島宅のリビングへ向かうと、床に敷かれた座布団に座る村木と田嶋、ソファに座る一真、そして両手足を縛られている岡島の姿があった。和人の姿を見て、一真が声を掛けた。
「あ、先生」
「おう一真……沙織里は?」
不安になって和人が尋ねると、一真が答えた。
「別の部屋で休んでるよ」
「岡島さんにな……防音室で、縛られて拘束されてた。擦り傷があったから、応急処置はしといた」
一真の言葉を受けて、田嶋が続けて答えた。意味深な目配りを受けて、和人はおそらく田嶋が魔法を使って沙織里の傷の手当をしてくれたのだろう、と察した。
「えっと、状況は理解できているかな?」
村木が和人に向かって問い掛けた。
「いや、その……正直よくわかってないです」
和人が答えると、村木がその後の状況について説明を始めた。
自分の魔法を受けて吹き飛んだ和人はそのまま岡島へと衝突し、そのまま壁へとぶつかったらしい。その際に、電撃と衝撃で和人は気を失い、頭を打った岡島も動けなくなったそうだ。そこに戻ってきた田嶋は驚いたようだったが、今のうちに縛っとけ、と岡島のことを縛り上げて拘束したとのことだ。
そして、奥へ行った村木と一真が沙織里のことを見つけると、沙織里は両手足を椅子に縛られて身動きが取れなくなっていたらしい。学校帰りに急に気を失い、気が付いたら椅子に縛られていたという。
岡島に何かをされたのかという点については、どうも岡島は沙織里に向かって、金を払っても良いからセックスさせろと迫られていたらしい。それ以外には身体に触れられたりもしなかったとのことで、飽くまで同意を得ようとしていたのだから律儀と言えなくもないが、そのために土下座までしていたということを沙織里は真っ青な顔で話していたらしい。そして、そこまで話して緊張の糸が切れたのか、気を失うように眠ってしまったらしい。縛り上げた中学生を前に土下座する中年というのは、なるべくお目にかかりたくない光景だ。沙織里のトラウマになってしまうかもしれない、と和人は思った。
「というわけで、菅原くんの勇敢な行動のおかげで解決したわけだ」
「あ、あぁ……そうですね」
田嶋の言葉に、和人はあいまいに頷いた。魔法のことをぼかすために、和人が危険を顧みずに突撃したことになったらしい。それはそれで都合が良かったといえばそうなのだが、実際のところはただの自爆であることを自覚している和人は複雑な心境だった。
「それで……この後どうするんですか?」
「どうする、というのは?」
和人が口にした疑問に、村木が質問で返した。
「いや、その、岡島さんは……」
言いながら、和人は岡島のほうへ視線を向ける。両手足を縛られて動きを封じられた岡島は黙り込んだままだった。うつむいているため表情は窺えなかったが、その全身から疲労感が漂っているように感じた。
「そりゃあ、警察に引き渡すに決まってるよ。れっきとした犯罪だ。もう呼んであるから、ぼちぼち着くだろう」
田嶋の言った答えを聞き、和人は少なからず安堵した。子供じみた童貞組織のことだから、内々で済ませてしまうのではないかと心配していたのだ。
「消防時代に付き合いのある奴もいるし、警察のほうには俺と村木さんで説明するつもりだ。あと、あの女の子も……話を聞かせてもらいたい」
「遅い時間で申し訳ないけどね。お母さんにも、ここへ来てもらうよう連絡しておいた。だからまぁ、菅原くんは他の子を連れて先に帰っててくれるかな」
田嶋、村木が続けて言う。直接の被害者なのだから、沙織里もこのまま帰すというわけにはいかないのだろう。時間はもう22時を回ろうとしていたが、仕方がないと思った。
「そうですか……すみません、よろしくお願いします」
「うん、菅原くんもよろしくね」
和人の言葉に、村木は申し訳無さそうに頷いた。和人は一度沙織里の様子を見てから、一真たちを連れて帰ろうと思った。そういえば、三人の自転車や荷物は実家に置いたままだ。三人の両親から塾にクレームが入らなければ良いが、と和人は場違いなことを考えていた。
そして和人は、ふと思い浮かんだ疑問を口にした。
「それにしても、岡島さんはなんでこんなことしたんですか」
ほとんど動かないままの岡島に向かって問い掛ける。
「金を出してでもセックスしたかったなら……その、お店にでも行けばいいじゃないですか」
子供がいる場でこういう話をするのもどうかと思ったが、どうせ親戚の集まりなどで下品な話題を耳にすることだってあるだろう。あまり気にしないことにした。当の一真は、ぽかんと口を開けている。
「はは、そりゃね、菅原くん」
横から田嶋が笑いながら答えた。
「前に言わなかったっけ。岡島さんは生娘じゃないとイヤなんだよ」
「えぇ……」
思わず、和人は間の抜けた声を出した。
「おおかた、こないだ活動センターで菅原くんに煽られた時に見かけて、一目惚れでもしたんじゃないか」
「いや、煽っただなんて人聞きの悪い……」
「ははは」
田嶋の笑い声が響く中、どん、という大きな音が部屋に響いた。音がした方向を見れば、岡島が縛られたままの両手で床を叩いたようだった。癪に障ったのだろう。
それにしても、それだけのことで拉致、監禁などするものだろうか。沙織里は和人の姪にあたる親戚だ。もしかしたら、間接的に和人への復讐の意味合いもあったのではないか。
そう考えると、和人は沙織里に申し訳ない気分になっていた。後でちゃんと詫びなければならないな、と考えていた。
「先生、きむすめって?」
和人が考え込んでいると、不意に一真が疑問を投げ掛けてきた。中学生には馴染みのない単語なのだろう。
「生娘ってのは……まぁ、純潔ってことな」
「純潔?」
「処女ってことだよ」
「ふーん……」
和人の答えを聞いて納得したのかしていないのか、よくわからないような表情をしながら一真は考え込んでいた。中学生と言えば、個人差もあるが男子などは性的な知識を貪欲に吸収しているものだが、もしかしたら一真は疎い方なのかもしれないな、と和人は思った。
だが、次に一真が発した言葉は、誰もが予想していないものだった。
「でも沙織里って……あいつ、処女じゃないよ」
「……は?」
空気が、完全に凍り付いた。遠くのほうからパトカーのサイレンが近付いてくる音だけが、部屋に響いていた。
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「おい、くっつくなって」
「だめだって! あんな目にあったんだから、転んだりしたら危ないでしょうが!」
背中のほうから聞こえてくるそんなやり取りを聞き流しながら、和人は夜空を見上げた。一緒にいるのが生徒たちでなければ、鼻くそでも弾き飛ばしたい気分だった。
岡島の家を後にして、一真と陽平、汐梨の三人を連れて和人の実家へと向かう道の途中。先ほどから、陽平と腕を組もうとする汐梨と、汐梨から逃げようとする陽平のやり取りが続いていた。和人から見ても、目を覚ました陽平の足取りはしっかりとしていて支える必要はなさそうだったが、汐梨は甲斐甲斐しく支えようとしているのだった。
「……それにしても一真、なんであんなこと言ったんだ」
ふと、和人は自分の隣を歩いている一真に向かって尋ねた。
「あんなことって?」
「その……沙織里が処女じゃない、って」
一真が、沙織里は処女じゃないと言った瞬間。岡島宅のリビングの空気は完全に凍り付いた。それまでうつむいていた岡島も含め、全員が目を丸くして一真のことを見ていた。一真本人は気付かずにそのまま部屋を出て行ったが、残された四人はしばらく衝撃で身動きが取れなかったくらいだ。
和人にとって沙織里は、肉親に近い親戚だ。一緒に暮らしていた時期があるせいか、姪といっても、妹か娘のような感覚に近い。いきなり処女ではないなどと聞かされ、少なからずショックを受けた。
相手は誰なのか? 誰がそんなことをしたのか? いや、恋愛は自由だから任せるか……でも、避妊はちゃんとしたのか?
様々な思いが一挙に頭のなかを駆け巡った。どれもこれも、考えても答えの出ない疑問だ。岡島の家を出る前に、別の部屋で寝ていた沙織里の様子を見たが、なぜか直視できなかったくらいだ。
帰り道を歩いている今も、正直なところ混乱は抜け切っていない。
「なに、一真そんなこと言ったの?!」
和人たちの会話を耳ざとく聞いていた汐梨が、陽平の腕から手を離し、和人と一真の間に割って入ってきた。
「いやほら、前に話してたじゃん。処女膜破れたかも、みたいな」
「それと処女じゃないってのは別の話でしょ?!」
怒ったような声で汐梨が言った。
「おい、お前たち。時間も遅いんだから、ご近所迷惑にならないようにな」
それほど響くような声ではなかったが、ヒートアップしそうな雰囲気を感じて和人は二人に言った。
「それで……どういうことだ?」
だが、話の内容も気になるところだ。声を小さくしながら、和人は続きを促した。さらに後ろから、汐梨から解放されて手持ち無沙汰になった陽平が言ってきた。
「それは沙織里が陸上部だったから、激しい運動すると処女膜が破れることもある、みたいな話になっただけだろ」
「……それだけ?」
「うん」
和人に向かって頷く汐梨を見て、和人は思わず笑い声を上げそうになっていた。安心なのか放心なのか自分でもよくわからなくなりながら、空を仰ぎ見る。
「……なんだよー、俺はてっきり沙織里がどこかの馬の骨に騙されたのかと」
そう言いながら和人は、軽口が言えるくらいなのだから、今きっと自分は安心しているのだろうな、と思った。
「馬の骨って……なにそれ」
「いやぁ、だって沙織里に彼氏なんていないだろ?」
「それはわかんないよ?」
「……え?」
どきりとして、和人は汐梨の顔を見た。だが汐梨は何も答えずに、和人の一真の間から一歩引いた。そして、再び後ろからしがみつくようにして陽平の腕を抱え込んだ。
「お、おい」
抗議の声をあげる陽平だったが、それを無視して汐梨は和人に悪戯っぽく笑いかけた。
「15歳は、もう立派なオトナだよ」
「……勘弁してくれよなー」
苦笑いをしながら和人は前に向き直り、手の平で自分の額を叩いた。乾いた音が周囲に響いた。
オトナ、とは何なのか。印象深い大人たち……和人の頭には、三人の童貞老人の顔が思い浮かんでいた。
空気を読み、空気を操る村木さん。
傷を治癒することができる田嶋さん。
人を気絶させるほどの電撃を放った岡島さん。
最後に見た、三人の表情を思い出す。いずれ劣らぬ三人の魔法使い。その全員が、一真の言葉を聞いて完全に気が抜けた表情をして固まっていた。思い返せば、笑いがこみ上げてくるような間抜けな表情だった。そして、和人自身も同じ表情をしていたことだろう。
一真が、たった一言で四人の魔法使いを屈服させたのだ。
「そういう意味じゃ、一真が最強の魔法使いなのかもな」
「ん? 何の話?」
思わず呟いていた和人の独り言に、一真が反応する。和人は一真の顔を見て、にっこりと笑った。そして、前に向き直りながら気楽に答えた。
「別に。一真には素質があるかもな、ってことだよ」
「なんだぁ、それ」
わけがわからない、といった風に一真が返したが、和人は気にしていなかった。
きっと、一真にそれがわかるのは15年後くらいの話だろう。もしかしたら、魔法使いにはなれないかもしれない。むしろ、そちらのほうが健全だ。
(なんとも、有り難みの無い素質だよなぁ)
気を抜けば頬がにやけてしまうのを誤魔化すように、和人は空を見上げた。
冷たい空気の澄んだ夜空に、星々が瞬いていた。
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