山岸さんのこと。(番外編)
日本橋・神田地区には山岸さんの画廊以外にもいくつか現代美術を扱う画廊があった。
おそらく最も古いのは協栄生命ビル1階のときわ画廊。皇居から浅草橋を経て水戸街道へと繋がる江戸通りという目抜き通りに面したガラス張りの貸画廊である。展示空間としては壁がひとつ少なくなるが通りを通る人から展示風景が見渡せる現代美術の窓のような画廊だった。まだまだ現代美術が社会に浸透せず〝訳わかんないゲイジュツ〟という理解が一般的だった頃だが、あの近辺のサラリーマンや隣接する常盤小学校に通う子どもたちの目には、もしかするとヘンテコな作品も親しみやすく写っていたかも知れない。
ビル内のときわ画廊裏口の奥は駐車場になっていて画廊正面の左に車の出入口があった。したがって彫刻や重い石など重量のある作品の展示には重宝だったし当時としては有名な生命保険会社の本社ビル、近隣の中では群を抜いてしっかりした鉄筋コンクリートの建物だった。皆この界隈の画廊のことを、神田と言うが(それは神田駅から歩いて来て帰りは神田駅周辺の飲み屋へと向かったからだろうか)運営を任されていた大村和子さんはその都度「日本橋です」と訂正していた。
80年代に入ると、70年代を共に歩んで来たはずの作家や批評家を真木画廊で見かけることが少なくなっていた。画廊で客の応対をするのが良枝夫人であることが多くなったと同時に、歯に衣着せぬ山岸さんが煙たくなったのかも知れないと20代のぼくは勝手に想像していた。そんな頃ときわ画廊に行くと30代後半〜40代の作家や批評家が、ウィスキーのグラスを傾けていることが多かった。大村さんは「田代さんもどうぞ」と言って一杯注いでくれるが、あまり居心地のいいものではなかった。
秋山田津子さんが経営する秋山画廊は1985年の開設だが、同じ場所にあった先代の秋山画廊は元々古美術等を扱う画廊で、山岸さんが運営を任されるようになるのは、はっきりしないがおそらくときわ画廊開設より少し遅いのではないかと推測する。
1955年生まれのFMが、真木画廊から歩いて1分ほどのところに画廊パレルゴンを開設するのは1981年である。画廊はすぐに50年代生まれの学生や作家の溜り場、あるいは秘密基地のような空間になった。先行する40年代生まれの作家たちに対する対抗心のようなものも少なからずあったと思う。さらに歳上の山岸さんへの対抗心を今もFMは否定しない。
続いてやはり1分ほどのところに、多摩美の学生たちが中心となって自主運営スペースであるスタジオ4F、さらに同じビルの屋上にROOFをオープンさせた。
さてKN氏が主宰する「現場研」からいきなりメールが届いたのは、山岸さんが亡くなる前の年あたりかと思っていたが、調べてみると驚くべきことにやはり2008年のようだ。メールの内容は、FMが編集し画廊パレルゴンが発行した冊子「現代美術の最前線」をPDF化してネットで公開するが了解して欲しいというもの。どこでどうメールアドレスを調べたのか、確か送り主は現場研メンバーで、その後国立新美術館資料室長を今年まで勤めていたTE氏だったと記憶する。さらにそのメールには「80年代におけるアヴァンギャルド系現代美術〜画廊パレルゴンの活動を焦点として」というシンポジウム開催の告知が添えられていた。
今ネットで調べると、2008年7月6日、京橋区民会館(個人的にこの貸しスペースには多くの記憶がある)。ぼくはそこに向かい、KN氏だけでなくパネリストのFM、同年代の多摩美出身作家OM、KN氏のあと田村画廊に勤務していたIKと十数年ぶりに再会した。