山岸さんのこと。(5)
2008年4月南葛西富士公園に、山岸さんを囲んだ花見のため十数人が集まった。僕も何人かに声をかけ、山岸さんも何人かに声をかけていた。僕は離婚したS(以下SRと記す)と十数年ぶりに顔を合わせた。印刷屋さんこと作家のT(以下TH)、坪、そしてなんと沖縄の大学で教えているTM(名前が似ているので僕とごっちゃになっている人が多くいる)も駆けつけてくれた。しばし楽しい春の午後を過ごし、ここでも山岸さんは酒を飲み、指に挟んだ煙草から灰が落ちるのを気にもせず多くの話を語ってくれた。今から考えれば山岸さんにとり最後の花見ということになった一日である。
それ以降僕は、月に一度は山岸さん宅を訪ねるようになっていた。正直なところ山岸さんも僕も、時間がそんなには残されていないことを了解したうえでの訪問だったと思う。「俺の話は表沙汰にできない話ばっかりだからな」「記憶は墓場まで持っていく」そう言う山岸さんに、僕は根掘り葉掘り食い下がった。出版編集の仕事をしていた僕にとって、山岸さんの経験してきたことは形のある記録として残すべきだというのがその理由だった。
秋葉原でボイスレコーダーを購入し、何度めかの訪問でそれを出してテーブルに置いた。山岸さんは「そんなもん回すなよ」と言いながら、それでもよく語ってくれた。とにかく話すのが好きな人だった。
山岸さんは田村画廊を皮切りにさらに神田で真木画廊を経営し、駒井画廊の運営をし、実家のある山形にリュミエール画廊を開き、一時期はサンフランシスコでもパートナーと画廊を経営していた。真木画廊のネーミングについては、芳枝夫人から「やまぎしのぶお」の頭とお尻の一文字ずつを取ったペンネーム「まきしのぶ」に由来すると聞かされていたが、実は第二次対戦中にフランスやイタリアの森林地帯に潜んでナチスやファシストへの抵抗運動を繰り広げたレジスタンスグループ「マキ(maquis)」に由来すると聞いたのは、山岸さんが亡くなった後のことである。
90年代に入り、第三次田村画廊(僕が初めて個展をした場所だ)を閉めた後、真木画廊を「真木・田村画廊」と改称し10年間活動を続けるが、2000年、20世紀とともに閉廊する。
閉廊後、山岸さんは韓国の大学に客員として招かれ、しばらく韓国で過ごすが(「俺は大学の先生なんてできないよ」という山岸さんに「山岸先生は居てくれるだけでいいんです」という厚遇だったらしい)、半年ほどで芳枝夫人が病に倒れ、看病のため大学を辞して帰国したという。
僕が知っている第二熊野屋ビル一階の真木画廊は、中央区日本橋と千代田区神田の境界に位置し、中央通りから少し東に入った南の日本橋側と、北の神田側に入口が二つある。日本橋側は一方通行だが車が通る通り、神田側は飲み屋や中華料理店があるが、人と猫くらいしか通らない路地である。この路地に行政上の中央区と千代田区の境界線が引かれていて「ここならどっちの警察も来ないから、車を停めといても大丈夫よ」と芳枝夫人に教えてもらい、個展の搬入に使用した2トン車を道幅ギリギリだったが一晩停め置いたこともあった。
大抵の真木画廊への来廊者は、神田駅から歩いてきてこの北側の路地から入る。左にすぐの細長い、手前に客が座り奥で芳枝夫人が事務を取る(ピンク電話がある)画廊事務室があり、その右が当時の現代美術の貸画廊としては広めの展示室であった。一方南側の(山岸さん筆による「〇〇展」という勘亭流看板が掲げられた)ガラス扉の正面玄関から入ると、一間幅の(長さ四間ほどだろうか)廊下が少しあり、その先右側に山岸さんの執務室のドアがあって、さらに狭くなった通路(ここの壁にさまざまな展覧会やイベントのポスター、フライヤー、ハガキが貼られている)を抜けると右に展示室がある、そんな構造だった。
大学の1年か2年のときだったと思う。二学年上のTMに声をかけられて、この南側の廊下を小品や平面を展示できるように壁紙を張り替えるという作業をしに行ったことがある。坪や小林もいたかも知れない。それまでもこの廊下には、画廊にあった(あるいは誰か作家が置いていった)ちょっとした作品が展示されていたが、それ以降は綺麗な壁のちょっとした展示空間ができ平面作品や小さなオブジェ等が展示されるようになった。
田村で個展をしてから僕は、週に一度、真木画廊を訪ねたときには山岸さんの執務室のドアを軽くノックし、ドアを少し開けて挨拶をするようになっていた。山岸さんの執務室は入るとまずソファがあった。客はそのソファに座って右手の執務机の椅子に座った山岸さんと会話する(90年代ともなるとドアを開けた際そのソファで山岸さんが横になっていることが多くなった)。ソファの奥にはスチール製の紙入れがあり、その引き出しにはドローイングや版画の平面作品が収められていた。また執務机の奥には小さいけれど嵩張る立体作品や額縁やキャンバスが置かれた空間もあったと記憶する。ソファの背と確か部屋の右側に設置された書棚には画集や作品集、美術・哲学関係の書籍と共に何人もの若い作家の作品資料がファイリングされていた。
「あの画廊にあった作品や資料はどうしたんですか」と聞く僕に「ぜんぶ山形の実家に突っ込んである」と山岸さんは答えた。THさんと何人かでトラックに載せて山形まで運んだらしい。「うわあそれ見たいな。山形に連れてってくださいよ」とい言うと「めんどくさいし体もきつい。それにもうどうでもいいんだよ。興味もない」と山岸さんは答えた。
その年の春から夏にかけて、先に記したように山岸さん宅を頻繁に訪れると同時に、70〜80年代の田村画廊と日本橋・神田の現代美術状況を一冊の本として記録に残すため、何人もに連絡をとった。まず当時よく仕事をしていた出版社の編集者ZT。彼女は今やメディア大手となった富士見町にある持株会社の、元本社ビルだった本郷の子会社で、大地の芸術祭プロデューサーKF氏の記録集やそのころ東京都現代美術館で大規模な展覧会が開催されたKTの本を編集するなど、その会社でいわば現代美術担当編集者だった。
「こんな本を作りたい」という僕に、彼女は「うーん、何かイベントとリンクする形で企画を出せば通るかも知れない」と言った。僕は一週間程で「田村画廊とその時代」展という企画書をまとめ、少ない伝手を辿っていくつかの美術館の学芸員とも会い、また本を纏めるために力を貸してくれそうな人に連絡を取った。
僕の頭の中には、すでに出来あがった本のイメージがほぼ完成していた(編集やデザインの仕事をするときにはいつもそうだった)。
A5版で300〜400ページ、美術の本である以上、画像ページが豊富であることが求められる。そこでまず連絡を取ったのは70年代からこの国の現代美術をカメラに収めてきたAS氏。彼は「俺がカメラマンになったのは山岸さんのせいなんだよ」と話してくれた。美術家を目指しつつも写真が趣味だった彼は、友人の個展を撮影し、プリントをあげるつもりで田村画廊に持っていった。すると山岸さんが「そんなもん金取って売りゃあいいじゃないか」と言ったという。それ以来彼は、撮影は自分の判断でするがプリントは一枚いくらで売るというルールを定め、現在に至ったという。AS氏が晩年まで自らの手によるプリントに拘ったのにはそんな事情があった。「だから山岸さんがいなけりゃ、今の俺はいないんだよ」と語って別れた彼は、数日後僕に山岸さんが写ったプリントを数枚送ってくれた。
山岸さんの証言だけでなく、僕の知らない記憶を持っている人にも連絡を取らななければならない。宮城の大学を定年退職し、その後東京芸大先端芸術学科の教授を勤めていたTN氏。彼はAS氏が送ってくれた真木画廊前での写真にも写っている、(僕の大学の恩師でもある)EK氏とともにいわゆる「芸大もの派」を代表する作家である。
それから真木画廊オープンの頃だったのだろうか、移転した第二期の田村画廊ディレクターとして声をかけられて仕事をし、再会したころは女子美術大学で教鞭を取っていたKN氏。彼は「こんど雑誌を立ち上げる」という山岸さんの言葉で画廊に勤め始めたがそれは実現せず、田村、真木画廊が制作し毎週画廊に置かれていた「展評」という小冊子を編集しながら画廊番を続けた。「展評」は誰かの個展や作品を、別の作家が評論するという内容の(何年か前国立東京近代美術館の企画でも展示されていた)当時としては画期的な編集の冊子で今や貴重な資料である。「あれは俺が一人で作ってたんだよ」とKN氏は言った。
KN氏は山岸さんを顕彰する本を作っても意味はない、あの時期の日本橋・神田で起きていたことを全体像として記録するなら協力すると言ってくれた。僕もまったく同じ考えだった。田村画廊が開設された1969年は、20世紀前半を世界が戦争に明け暮れた時代と呼ぶとすれば、20世紀後半の社会的、思想的、政治的転換点(があったとすれば)のただ中にあった。前年の68年は東大全共闘が安田講堂を占拠した年であり、パリでは5月革命が起こり、69年夏にはウッドストックフェスティバルが開催されていた。社会は自分たちの力で変えられる、未来はもっと素晴らしいものになると若者が考えることができた、最後の時代かも知れない。少なくとも世界が同時に共振し始めていた。
同学年で彫刻科出身のSTと、すっかりきれいになってしまった上野駅のパブでビールも飲んだ。彼は先端芸術科で教鞭を取りながら、かつて僕らが写真の現像やプリントを学んだ中央棟地下にある写真センター長も兼ねていた。写真技術を使用したインスタレーションで作家活動していた彼は、写真技術だけでなく最新のデジタル画像処理技術にも通じていると考えての再会だった。STは同郷で高校の後輩でもある、当時酒田市の美術館で学芸員をしていたNTを紹介してくれた。
NTは僕らよりかなり歳が下だったが、(僕らが神田に足を運ばなくなった)80年代後半、筑波大学在学中に毎週のように筑波から神田に通い山岸さんの話を聞いたという人だった。彼とはその夏、山形の山岸さんの実家で三人にとって忘れられない貴重な夜を過ごすことになる。
6月末だったろうか、山岸さん宅を訪れたぼくにいきなり彼は「田代さん、一緒に山形に行ってくれませんか」と言った。「もうどうでもいい」「興味ない」と言っていた、画廊にあった作品や資料が〝突っ込んである〟山形の実家にである。
たぶんその場で7月末の日程を決め、僕は早速新幹線の切符を予約することにした。
(この項つづく)