山岸さんのこと。(8)

2009年3月から4月にかけて、ぼくは「山岸信郎さんをしのぶ会」の会場を日本橋・神田で探していた。ときわ画廊があったビルの所有者の共栄生命は90年代に経営破綻し、跡地に京王プレッソインというビジメスホテルが建っていた。それなりにキャパシティがあるかもしれない、かつて画廊からよく流れていた神田駅東口近くにあった二階建ての三洲屋もなくなっていた。ただ便利な時代にはなった。ネットを検索して、第一期田村画廊の脇を日本橋方向へ少し入ったところの貸ホールを見つけた。事務所を訪ねると、もう貸ホールは閉鎖する予定なんだが、最後の営業として貸すことは可能と言ってもらえた。大きいビルだったし経営も普通のビル管理会社のようだったが、山岸さんとその画廊について事情を話すと責任者の人からそんな答えが返ってきた。ぼくはネクタイを普通に締めている普通の会社員に、まだ少し残っている江戸っ子気質を一瞬感じた(大袈裟か。単純で初歩的な営業技術だったかも知れない)。
2009年5月9日(土)、日本橋サンスカイルームにて「山岸信郎さんをしのぶ会」が催された。その日は山岸さんの80回目の誕生日。同時に神田祭神幸祭の日でもあり、界隈には法被姿の人が行き来し祭囃子がスピーカーから流れていた。
会場には十数年ぶりに顔を合わせる人たちがつぎつぎと集まり、そこ此処で話に花が咲いていた。あらかじめ決めておいた式次第は、進行役がぼくでまずTH氏から挨拶と会の活動報告、画廊で発表したうちの最年長YI氏による献杯という段取りだった。料理と飲物、サービス人員は会場が契約しているデリバリー会社から派遣されていた。開場前にサービススタッフの責任者に挨拶し、献杯までグラスに酒を注がないでくれとお願いしおいたのだが、徹底はされなかった。会場に人々が入ってくるとグラスに次々とビールが注がれ、当然だが賑やかというか大騒ぎというか騒然というか、そばに寄らなければ声も聞こえない状態となった。
こうなるとマイクとスピーカーを通したって、THの報告も親族からの挨拶もあったもんじゃない。山岸さんの学生時代からの友人OY氏の貴重な思い出話も、韓国から駆けつけ前日には山形の墓を参ったというKJ氏のスピーチもほとんどかき消されていた。美術家でメディアアーティストでもあるOK氏が、山岸さんに捧げたいと演奏してくれた古琴の演奏に耳を傾けた人がどれだけいたか(美術家を名乗る表現者集団のなんともトホホな光景ではあった)。そんな中、写真家のAS氏がマイクを握った。「みんな聞いてえ!」あのダミ声が会場に響いた。騒然としていた会場が一瞬静まり返った。そして以前ぼくに話してくれた、山岸さんと自からが写真家になった因縁を語ってくれた。そのときぼくは、数多くの表現の現場とアーティストの一瞬の表情を捉えてきたAS氏の、エネルギー、間の捉え方、そして空気を捉まえる力を垣間見た気がした。
会場にはMY氏がまとめ、ぼくと制作した「田村・真木・駒井画廊全記録」の拡大プリントが壁に貼られ、AS氏撮影の複数の写真、葬儀で遺影として使ったMJ氏撮影による晩年の山岸さん、山岸さんの首像は誰が作ったものだったか、今は思い出せない。そしてかつて真木画廊でバーボンを飲むイベントを行い、その後ノルマンディーで廃教会を再建した後、四国金比羅山に滞在し新たなプロジェクトに取り組んでいるTK氏から送られたバーボン(ワイルドターキーだったか)などが並べられていた。
その日の様子をSRはときどきカメラに収めていたと思うが、ほかに映像を記録していた人の記憶はあまりない(MJ氏はカメラを抱えていただろうか)。今から考えれば準備不足、段取り不足だ。ぼくは進行に追われていたが、あのボイスレコーダーでその音声だけは記録した。その後その音声をもとにレポートをまとめて当日会場に来られなかった人にメールを送ろうと考えていたのだが、その時間も取れないままそれからの日々は過ぎた。
「しのぶ会」がまあ無事に終了するのと、山岸さんの遺した資料の多くをTH氏、YY氏の立ち会いのもと国立新美術館アーカイブセンターにひき渡すのとどちらが先だったか、記録を調べないとわからない。その夏だったか、会のうち数名が国立新美術館を訪れ、資料整理経過の説明を受けるとともに収蔵庫内の保管の状態を見学させていただいて、とりあえず会の目的は達成、「山岸さんの会」は業務完了で解散ということになった。
一方あのボイスレコーダーに記録された山岸さんとの対話と「しのぶ会」の音声データはいまもぼくのUSBメモリの中にある。その夏だったのか翌年の夏だったか曖昧である。ぼくは国立新美術館資料室のTEさんに連絡をし、その音声データを寄贈したいと伝えた。TEさんはこの項の番外編に記したように(山岸さんが亡くなった年に行われた)現場研が主催する「パレルゴン」をめぐるシンポジウムで幹事役をしていた人。「山岸さんの会」が資料の整理経過の説明を受けた際にも、中心的な立場で対応にあたってくれた人だ。ぼくからの音声データの寄贈が山岸さんの会の一人としてのものなのか、個人的な行為なのか明確ではない。美術館側の資料にどう記されているか、レジメ的なものを受け取ったはずだがいまそれは見つからない。その件で国立新美術館を訪れた際に、TEさんは不在で二人の学芸員が対応してくれたが、彼らの名刺もいま見つからない。今世紀に入って以来の一般的な状況から推測すれば、彼らも非常勤採用、今どうしているかはわからない。
ただとりあえず、その時点で「音声データは文字起こしをして後日その結果を報告します」「とは言ってもいま美術館も予算不足、人員不足でいつになるかは約束できません」という説明を受けた。その後国立新美術館からの連絡はない。(この項つづく)

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