高篠薫一郎。
そろそろ父について書く。
彼の名は高篠薫一郎、僕と父は苗字が違う。僕ら兄弟は母方の祖父の養子ということになっている。母が一人娘だったためで、昔はときどきある話だったようだ。祖父は母と父の結婚を許す条件として、できた子供を田代家の後継にするよう条件を出したのだと思う。
僕が生まれたのは埼玉県入間郡武蔵町(現在の入間市)、僕らが育ったのは母方の、築150年だったか200年だったか、あるいは300年と聞いた記憶もある古い茅葺の、近所の中では大きな家だった。戦後の農地改革を経ても近隣に多くの土地を所有し、その畑(多くは茶畑)を耕したり世話をしていたのは近所の農家の人たちだった。
父も同じ武蔵町の前身豊岡町の生まれだが、父方の祖父は隣接する入間川町(現在の狭山市)の出身、家具職人だった。
子供が親から聞かされる話としては「若いころお父さんはモテたんだよ」とか「若いころお母さんはモテたんだよ」とか、そんな話は話半分に聞いていればいいのだが、写真を見ると確かに母は素敵な女性ではある。母を父と取り合ったという近所のおじさんがしょっちゅうわが家に来ていた。
父はといえば、1924年生まれ、二十歳で終戦を迎えた年齢だったが入隊はしたものの戦地には行かなかったらしい。ふたりは「青年団」で知りあったらしい。
父は5人兄弟の長男として苦しい家計を支えるため尋常小学校卒で働き、妹や弟を高校や大学に通わせたという苦労人だったが、一方才気煥発なところがあり、音楽好きでもあったことから青年団で合唱指導したり、戦後大ブームを起こしたハーモニカや口笛でNHKに出演し演奏したこともあったらしい。
戦前から戦中にかけ、豊岡町には陸軍の航空士官学校があった。戦後米軍に接収され「ジョンソン基地」となり、現在は航空自衛隊入間基地だ。僕が子供のころの昭和30〜40年代は、ジョンソン基地と入間基地が同居し、毎年航空祭が開かれ、一般に開放されて一部基地の中に入ることができた。浜松からブルーインパルスが訪れてアクロバット飛行したり、僕らはまだ日本では売っていないコカコーラを買って飲んだりした。
これから書くことは、父から聞いた話や父の死後母から聞いた話、兄から聞いた話などを記憶を頼りに書いているので、どこまでが真実かわからない。でもまあ、それが記憶の釣瓶縄である。
そんなわけで戦後すぐの豊岡町には「アメリカさん」が多かった。父は路上に祖
父の作った家具を並べ売ったという。米軍の中でジョンソン基地がどういう位置づけだったか知らないが、家族連れで駐留している人が多かったというから将校の率が高かったのかもしれない。僕も子供のころ西武池袋線の窓から、普段立ち入れない地域の日本とは思えない、刈り取られた芝生の丘に点在する家々の風景を眺めていた。基地の外にも福生ほどではなかったが「ハウス」が多くあった(「ハウス」については、村上龍氏の芥川賞受賞作や片岡義男氏原作の角川映画、あるいは大瀧詠一氏の作品を参照するまでもなく、60年代から70年代にかけてアーティストやミュージシャンを目指すお金のない若者たちや、アメリカ的生活を快適と感じる人々の、家賃が安く自由な空間を確保できる一軒家の借家として時代や文化の代名詞にさえなった。僕の予備校時代の恩師も一時期実家の近所のハウスで暮らしていた)。
1953年に朝鮮戦争が休戦協定でとりあえず終結し、1964年にトンキン湾事件をきっかけとしてアメリカがベトナム戦争の泥沼へ突入していくまでの呑気な時期だったのかもしれない。父が路上に並べた祖父の家具は一時日本に駐留していた米軍人家族に飛ぶように売れたという(因みに祖父は家具職人で、日本伝統の調度品をつくる指物師とは違う。江戸後期から明治にかけて流入してきた西洋家具に、日本の技術や工夫を加えて発展してきたものをつくる職人)。資金を手に入れた父はお店を構える。
時期の前後はおそらくごちゃごちゃになっている。父は戦後、日本にバウハウスデザインの概念を伝えた第一人者とされる川喜田煉七郎氏に師事する。父によれば、桑沢洋子、亀倉雄策等、川喜田七人衆の7番目だと言っていたがまあ大口を叩きがちな人だったからどこまで信じていいかはわからない。
ただ戦後、まだ一般の海外渡航が自由でなかった時代に、店舗デザインの第一人者だった川喜田氏とともに、アメリカやヨーロッパを旅し、いくつかの著作を出版したのは幼少期の記憶として残っている。
父は地元の商店街の外れに「家具のショールームたかしの」を開店する。僕の記憶に残る限り地下1階、地上5階の建物だった。そこそこ商売もうまくいった彼は、都内に「K.T.デザインセンター」という事務所を構えた。茗荷谷駅の上にある「教育ビル」の4階だったと思う。出版等を経て知名度やメディアとの繋がりも得、家具業界ではそこそこの名声を獲得したようだ
それと同時にコンサルタント業務に力を入れるようになる。各地の古い家具店の「現代化」に取り組み、稼ぎ始めた。バブルより前、高度経済成長の波に彼は乗ったのだ。
その頃の父の状況は、群馬県白井家具センターの白井氏のアメーバブログ『吹けば飛ぶよな家具屋のおやじ』2010年の「青春時代とわが師9〜14」に詳しく記されている。https://ameblo.jp/ip-shirai/entry-10649347284.html
僕も知らない「生き馬の目を抜く東京の山師」といわれた父の姿が詳しいので、一部引用させていただく。
「昭和45年12月、僕は思い切って高篠薫一郎氏にでんわをいれた。氏のセミナーに初めて参加してから3年たっていた。そのあいだにも、華々しくオープンする全国の家具店の指導をしている氏の記事は全部読んでいた。
早くしないと乗り遅れちゃう。年が明けて、氏はやってきた。電話予告で時間につくので駐車場に案内してくださいというものであった。そう、僕の店には表に駐車場がなかったのだ。表で待っていると、見たこともいない外車が吹けば飛ぶよな当店の前を通り過ぎるとT字路のカドで止まった。そして、しばらく当店を見ているようであった。やがて、裏の駐車場にギリギリの道を案内して入ってもらった。後で聞けば、サンダーバードというアメ車であった。しかも、おかかえ運転手つきであった。度肝を抜かれたごとくの登場であった。
氏を案内して猫の額ほどの応接室に案内して両親や嫁さんを紹介したものであった。やがて、氏は切り出した。指導を受けたいとのことですが、私は先ほど、T字路のカドで見ていてこの吹けば飛ぶよな家具店が見事に変身してあの角にきた車や人々が、どんどんどんどん入ってきてしまう画期的なデザインのお店の設計図が頭のなかにひらめき、完成しております。という、驚くべき切り出し方であった。その図面の基本設計図は今月中にできます。指導料は建築に3000万として7パーセントの210万円です。当時のお金で3000万円は今の三億円に匹敵するものであった。実は、もう設計師も横にいたのである。」
各地を飛び回る日々で稼いではいたが、父は結局地元にこだわった。市内のさらに外れ、「新市役所」や「新郵便局」、「市民会館」が畑の中に計画されていた地域に、いち早く「リブパレスたかしの」をオープンする(これは検索すると面白い)。オープン時は駐車場の入り口に円形でガラス張りの「ピザハウス」があり、毎週歌手やタレントが訪れ、そこからニッポン放送のラジオ番組が放送された。地上8階の最上階は結婚式場と「ステーキハウス・ジロー」である。昭和40年代にフランス料理のチェーン展開を計っていたお茶の水の「ジロー」と手を組み、多くのスタッフも送り込まれた。
1階は小物雑貨、地階は家電、2〜7階が家具(学習、キッチン、ダイニング、寝室、ウエディング…)、いまから考えると池袋から45分も電車でかかる地域でこんな店が成り立つとは思えないが、父はモータリゼーションの到来とともに、そんな時代の変化があると思ったのかもしれない。実際同時期にオープンした「家具はムラウチ八王子」の村内家具センターはいまも営業を続けているらしい。
「リブパレスたかしの」は10年もたなかった。僕がたぶん高校2年のとき、昭和50年初頭に億単位の負債を負って倒産を迎えた。
前掲の白井氏のブログは「その理論は、できるだけ大きな借金を、貸してくれるところはどこでもよいから借りまくり、できるだけ大きな建物を高篠デザインでつくれば売れまくるというシンプルなものであった。この理論を実行した全国の家具店がそれからバタバタつぶれていくのである」と綴っている。バブルに先立つこと10年、「石油ショック」の影響もあったと思う。
その後の父は、知人から紹介されたやや鼠講まがいの健康寝具の通販などをしながら家族を支え、借金を少しずつ返済する生活を30年近く続けた。だが数億の借金が3000万円ほどまで減った2003年5月25日、彼は去った。昭和と同い年、78歳を迎える少し前だった。
母が生まれ育ち、父が旧家を鉄筋コンクリートの豪邸に立て替えた土地には現在4件の家が建ち、見知らぬ人が暮らしている。
晩年は骨髄腫を患い、入退院を繰り返していたが、死の数週間前まで髪は黒々とし、頭もはっきりしていた。それが突然髪が白くなり、抜け、よく分からないことを口走るようになり、たちまち逝った。いま僕も66歳になるが、髪はまだ黒い。