記憶の縄釣瓶petit: 恵比寿にあった定食屋の名前が思い出せない。

恵比寿にあった定食屋の名前が思い出せない。
明治通りから中目黒方面へ向かう駒沢通りの、JRガード手前を左に折れた(何通りと言うんだろう、当時は考えたこともなかったが白金辺りでは北里通りと呼ばれていた。単にバス通りとも…渋谷駅発東京駅行きの都バスが通っていた…おそらく今も)すぐ右側にあった定食屋。八百屋、魚屋、衣料品店等が雑居し駅への抜け道でもあった昭和感漂う南のアメ横「えびすストア」の入り口脇にあった定食屋だ。
間口三間ほど、L字型のカウンターが左奥へと伸びている。カウンターに座れるのは30人強といったところだろうか。後ろの壁には短冊に書かれたメニューが、50種は言うに及ばず、もしかすると70〜80種類はぶら下げられていたように記憶する。
その壁と席の隙間は人一人が横向きになって蟹歩きでやっと通れるほど、二人がすれ違うことなどできない。奥の席の客が会計を済ませ(基本テーブルチェック、いやカウンターチェックである)帰るときには、入り口近くで待っている方は、当然奥の客が出てくるまで待たなければならない。ごく稀に、奥の客が立ったと同時に入って行こうとする人もいる。しかしこれも当然だが、彼にはその後、後ずさりをしなければならない運命が待ち構えている。
奥行きが六間だとすると18坪ほど。その7割がオープン厨房(キッチン)だった。昔の飲食店にはそういう作りの店が多かった。働いているのは7〜8人。まことに動きやすく、貧乏くさくない。

白金台に仕事場があった頃、毎日のようにここで昼飯を食っていた時期がある。注文はほぼ「鯵の開き、納豆、焼きのり、おしたし、味噌汁」。おしたしは瞬時に出されるのでそれをちびちびやりながら、納豆をひたすら混ぜつつ魚が焼けるのを待つ。ときに少し奮発して味噌汁(若芽がかすかに漂っているやつ)を豚汁にしたり、上新香を注文したり、卵焼きを加えることもあった。
生卵、焼きのり、納豆あたりは50円だったと思うが(納豆は100円だったか?)、それでもこれだけ注文すると700〜800円になっていた。豚汁や上新香が加わると千円札に小銭を足すこともあったと記憶する。すでに90年代、ガーデンプレイスも完成し、あの代官山への玄関口でもあった恵比寿は、「お洒落な街」になり始めていたが、朝の開店直後と夕方早めの時間帯(夕方早め…3時すぎから5時前までに訪れる機会があれば、ビールという楽しみが加わる…ビールはヱビスではない、サッポロラガーだったと思う)以外は、いつ行っても大抵席が空くのを並んで待った。繁盛していた。
近年、ここは安くておいしいという情報を得て500円未満で焼魚定食が食べられる店を訪ねたりすることもある。だがやはり、何か悲しい思いの残る一品が皿に載っていたりすることも多い。しかしあの動きやすい広い厨房で腕を振るっていた料理人、否、職人たちは、美味いもんを客に食わせるという気迫に満ちていた。文句あっかという自信に満ちた背中を客に見せながら、鍋やコンロに向き合っていた
別にプライドがあるわけではない(店に新人が入って来たときには見せるかもしれないが、客に見せるもんなんかじゃない)、これでおあし貰って生活しているという、ルーティンワークを日々こなしているだけのことだ。まだ街にはそんな人が当たり前にいた頃だったから、僕も当たり前と思っていた。

鯵の開きを冷蔵庫から出して強火のコンロに放り投げ、その間に卵焼きを焼き、サンマを冷蔵庫から出して火にかけ、鯵をひっくり返して焦げ目をつけるため超強火にして蓋をし、向こうでは肉野菜炒め卵入りの鍋を煽っている同僚を横目に、卵焼きを皿に盛って大根おろしかなんか添えて「はいよ」と配膳担当に声をかけ(近くの客なら直接カウンターに出し)、焼き上がってカウンターにぽんと置かれた鯵の開きの味が、絶品でないはずはない。ご飯と味噌汁が出てくるタイミングにも、寸分の狂いさえない。

あのオープンキッチンで働いていたのは、ほぼ僕より年長者。一人だけ若者(といっても30歳前後)がいたと思う。

恵比寿にあった、あの定食屋の名前を思い出したい。


追記:「こづち」。健在だった。勝手に過去形にしてはいけない。行かねば。



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