井の頭通りの20年。


井の頭通りの20年。

20代後半から40代前半まで、井の頭通り沿いの賃貸の部屋に20年ひとりで住んでいた。変わっているだろうか。
その20年の間、はじめ月8万数千円だった賃料は14万5000円くらいにまで上がり、更新のたびに上がるのが当たり前だった賃料もやがて上がらなくなり、最後は下がって12万5000円位だったと記憶する。僕も戸籍上は結婚したがひとり住まいを続け、やがて離婚した。

大学時代の前半は、埼玉の自宅から上野まで1時間半の電車通学をしていた。だが当たり前のように地方出身の友人の一人暮らしが羨ましく、大泉学園のアパートを借りたのは大学4年のときだったと思う。これも当たり前のように学校と自宅の中間、下り電車に乗ればすぐ自宅に帰れる西武池袋線の(なぜか綺麗なお姉さんが乗り降りする率が高いと勝手に感じていた)駅で物件を探した。
大泉学園に住んだのは4〜5年だろうか。大学院時代からデザイン事務所でアルバイトをし、一方で作家活動をしていた僕が会社員になる経緯は、別に書いた方がいいと思う。ともかく会社員になった。

だがその会社は取引先の出版社の雑誌編集部に夕方直接出勤し、その日の仕事を朝までに終わらせると(終電前に終わることもあれば始発が走り始めてから終わることもあった)タクシー券で帰るという勤務形態だった。ときはバブル真っ只中、当時かなりの勢いがあり急拡大を続けていたその出版社で経費精算さえ許されていた僕たちは、早め(2時〜4時ころ)に仕事が終わると近所のシティホテル内にある24時間営業のラウンジレストランで夜食を食べたり、すでに朝が始まっている築地場外市場に繰り出したり、週末には朝まで営業が当たり前の湾岸エリアや西麻布の先端カフェで閉店まで過ごしたりした(先日通りかかったら西麻布の滋味溢れる「かおたんラーメン」はまだ同じ掘っ立て小屋で営業を続けていた)。だがこの辺りのことも詳しくは別に書こう。
大泉学園のアパートは隣が銭湯だったが風呂なし。そんな生活では当然風呂に入れない。それでも入社から半年ほどはそこに住み(その間夏が訪れ、過ぎた)、台所の流しに裸で上がり体を洗うなんてことをしてやり過ごしたが、秋口になりやっと風呂のある引越し先を探し始めた。

永福町の不動産屋をなぜ訪ねたか記憶は定かでない。誰かの友達が永福町に住んでいたことがあって「いい街だよ」とか「便利だよ」とか聞いたことはあった。よく仕事していた(遊んでいた)ライターのKは、確か吉祥寺か三鷹に住んでいて(いや高円寺だったかもしれない)「井の頭公園はいいよ」とも言っていた。あるいは子供のころテレビで見た「俺たち」シリーズの井の頭公園の映像も影響したかもしれない。

永福町駅前の不動産屋が案内してくれた井の頭通り沿いの物件は、地元の工務店が自ら建てたRC造、1フロア1室の最上階。ガラス張りの通りから見える、当時の工務店センスでつけられた螺旋状階段の手すりのデザインは勘弁してほしいとも感じたが、土地よりやや高いところを通る井の頭通りに面して建てられた建物の501号室は、入り口から入ったところに201号室がある、実質的には3階の部屋だった。

井の頭通りは渋谷から吉祥寺まで通っている。代々木公園の西で左に曲がり山手通りと交差して代々木上原で小田急線の下をくぐり、代田橋の先で京王線の踏切を渡って甲州街道と交差すると、左にカーブしてその先は同じく渋谷から来た井の頭線の北側をほぼ平行してまっすぐ走る通りだ。物件はその左カーブの先の緩やかな下り坂の途中、裏手100メートル程のところを走る井の頭線の線路に挟まれた土地に建っていた。通りはその先で神田川にかかる橋を渡ると今度また永福町駅へ向かう緩やかな上り坂になっている。
4階まではワンフロア2室の「メゾン永福」501号室は、ユニットバスと6畳のキッチン、10畳と言っていたがたぶん8畳くらいの3面に大きな窓がある以外何もない空間、そして南側に27平米のルーフバルコニーがあった。家賃は月収の3分の1を超えていたが即決した(半年後には給料が家賃の3倍を超えた)。
不動産屋は案内したとき「大家さんの中学生の息子が、大きくなったらこの部屋に住まわせるつもりで作った部屋なのでそれまで」と言っていた。そこに僕は20年居座り、当初の家主は亡くなり、退居するときにはその息子が家主(工務店社長)となっていた。すまないことをした。

最寄りの駅は井の頭線の「永福町」だったが、渋谷にひと駅近い「明大前」も距離的に変わらなかったので都心に出るときは明大前駅を利用した。
明大前駅は世田谷区にある。改札を出て右の短い商店街(30代前半くらいまでは、4月になるとその商店街に集まる明大在校生たちから新入生を勧誘するビラやチラシを差し出された)を抜け、上を首都高が走る甲州街道の歩道橋を渡ると杉並区の和泉。歩道橋を下りたところに明治大学和泉校舎の正門があった。正門周辺には、当時まだまだ「あの」書体の立て看があふれていた。うちの大学あたりの立て看とは違う年季と気合の入った字だ。
正門を左に見て右側、大学を囲むフェンスに沿った、人しか通れない半分自転車置き場と化した狭い路を抜けると井の頭線をまたぐ陸橋がある。陸橋を渡り、通りより一本入った裏道の坂を下ると、わが「メゾン永福」の1階にあたる裏階段に出ることができた。

東西に走る井の頭通りに面した建物の西側は、ガソリンスタンドだった。火事でも起きたら怖いなと思ったがおかげで視界を遮るものはない。その先には神田川が流れ、さらにその先にかつてその技術力で世界中のオーディオファンを魅了した今はなき「山水電気」の本社ビル。ビルといっても2〜3階、低層の(バウハウス的というかコルビジェ的というか)フラットな建物で、その前面には敷地面積の半分以上を占めるあまり車で埋まっていることを見たことがない駐車場があった。
あのころの世田谷や杉並、あの辺りの私鉄沿線の街はまだ、賑やかなのは駅から2〜3分のエリアくらいで少し歩けば緑も多い静かな環境だった。もちろん井の頭通りは主要道路、交通量は多かったが通りの反対側、南に面したバルコニーではあまり気になることもなかった(ただし大型車が通ったときには地震のように揺れた)。
通りに沿って東側には2階建ての木造アパート、その向こうにも低層の住宅が軒を連ね、上り勾配になった道がカーブするところに、いまや名前さえ思い出せないファミレス(その後そこはミニストップになった)の看板が見えた。
バルコニーの正面、南側100メートルほど先を井の頭線が走り踏切がある。踏切の手前は普通の個人住宅か、まだ少しだけ残されていた畑、踏切音はそれほど気にならなかった。
踏切の先にあるのは明治大学の付属女子高校。明大前駅を利用する生徒たちは僕と同様井の頭線に架かる陸橋を渡り、わが家から見下ろした先のT字路を左に曲がって再び線路を越え学校がある明大裏の緑の中へ向かう。一方永福町駅を利用する生徒たちは、(樹齢何百年だろうという大きな木と、大きな犬がいる大きな屋敷の裏を通る)井の頭通り南側の裏道の坂を下って来てT字路を右に曲がる。平日の朝と午後にはいつも、右と左から来てT字路で出会う子たちがかわす「おはよー」や、帰りの「バイバーイ」という明るく快活な声が聞こえた。

視線を遮るものがほとんどないルーフバルコニーの一部を、ブロック石で仕切って土を入れハーブを育てた。ハーブなんて雑草だから、ほんの例外をのそけば土と水と太陽があれば手はかからない。
(おそらく増築に備えたのだろう)部屋部分の屋根から飛び出た2本の鉄骨と、反対側の手すりに細いロープをV字型に通して洗濯物を干し、気候のいい頃にはディレクターズチェアを置いてコーヒーやワイン、バーボンを飲んだ。知り合いを呼んで飯をふるまったりもした。夏は布団を出して寝たこともある。
契約する際「このバルコニーで作品も作れるな」と思ったが(会社に入るとき「この勤務形態なら昼間作品作れるな」と思ったのと同様)、ここでたいした作品を作った記憶はあまりない。

20年という時の流れの中で、ガソリンスタンドはなくなり西隣にわが家を見下ろすマンションが建った。山水電気は土地を売却しヤマト運輸のステーションになった。やがて東側の2階建アパートも取り壊され、やはりわが家より高いマンションとなった。すでにバルコニー暮らしを満喫することはできなくなっていたが、会社の経営を始めて人事だの営業だのと忙しくなってしまっていた僕は、新しい住まい探しや引越しをする余裕もなく、そのまましばらく井の頭通り沿いに住み続けた。

そこから西日暮里に引越し、今のパートナーと暮らし始めて10数年が経過した頃だろうか、井の頭線に乗る機会があり(明大前と永福町の間、走る電車からほんの一瞬あの建物が見える場所がある…踏切のところだ)その瞬間に僕は目を凝らした。

まだ建っていた。バルコニーで女性が洗濯物を干していた。

両側に高いマンションは建ったが、ほんの少しあの部屋で暮らす人を羨ましいと感じた。


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