山岸さんのこと。(2)
山岸信郎さんが亡くなったのは2008年11月である。
その朝、僕は何度か見舞いに訪れた病院から、いきなり電話をもらったと記憶している。病院に向かいながら、彼が最終入院してからもときどきその東京女子医大に通い世話をしていた僕の元配偶者Sと、画廊を閉めるまで、また閉めてからも山岸さんと連絡をとり、なにかと手伝ってきた印刷会社を経営する作家Tに連絡をとった。
時間軸の正確な記憶はない。おそらく午前中には三人が揃い、昼前には葬儀屋が訪れ葛西の葬儀場に遺体を運んだ。午後には葬儀場に何人かが駆けつけ、通夜と葬儀の段取りが打ち合わせされ、翌日には山形の兄弟親族も到着した。僕は家に帰って連絡可能な人をリストアップし、メールをした。誰かが亡くなった際にはどこででも繰り広げられる光景だろう。
僕が山岸さんにおそらく十年ぶりくらいで会ったのは、その半年ほど前のことだ。若いころ世話になったにも関わらず長い間画廊も訪ねなかったし、画廊がいつ閉廊したかも知らなかった。
その年の初めだったと思う。すでに年賀状も書かなくなっていた僕に、大学の同級生で名古屋の大学で教鞭を取っていた小林亮介から律儀な賀状が届いた。返事を出すのも億劫だった僕は電話をして短い会話を交わした。そのなかで山岸さんの話題が出た。小林も僕も大学在学中から作家活動を開始し、卒業後も山岸さんとその画廊ではたいへんな世話になり、応援もしていただいた。
小林が「山岸さんどうしてるんだろう、会いたいなあ」と言った。すでに離婚して何年も経ってたSに連絡をとっていいかとほのめかす。Sは僕と付き合っていたことから山岸さんの画廊に出入りするようになり、80年代後半には長く真木画廊の画廊番もやり、閉廊後も山岸さんと何かと連絡を取っているようだった。小林にとってみれば友人の元妻だが、20代から知っている親しい知り合いの一人でもある。あまりいい気分ではなかったが、彼がSに連絡を取ることを拒否する理由が僕にはなかった。
2月の終わりだったろうか、小林から山岸さんに会いましたとのメールをもらった。Sと二人で山岸さんの自宅を訪ねたらしい。電話をかけると「体の調子はあまりよくなさそうだけど、頭はすごくしっかりしていて、記憶も確かだし話が相変わらず面白い」と言い「山岸さんの話の内容はすごく貴重だと思う、どうにかして記録して置くべきだと思う」とも語った。
僕は山岸さんに会わなければと思った。長年の不義理を詫びること、まだ何年も元気で過ごし、その記憶と経験を後世の美術界に伝えてもらうためにも。
僕は何年振りかでSに連絡をとり、山岸さんの自宅の電話番号を聞き連絡することにした。
(この項続く)