山岸さんのこと。(4)
山岸信郎さんは1929年、東北帝国大学勤務医の長男として仙台市で生まれた。姉が二人、三人姉弟の末っ子である。15歳のときに仙台工業専門学校(仙台工専)の学生として終戦を迎える。「あのころ優等生は三校に行ったが、俺は劣等生だったから工専に行った」と語っていたが、理工系の学生は戦争に取られないという読みもあったのではないかと思う。
47年、学制改革で仙台工専は三校とともに新制東北大学に編入され、東北大学工学部土木工学科の学生となる。年上に三校から東北大学生になった、戦後一貫して左翼的立場から美術評論を展開する針生一郎がいた。針生さんについて何度か尋ねたが、山岸さんは多くを語らなかった。一度だけ「彼は軍国少年だったんですよ」と漏らした言葉が記憶に残っている。
この辺りの話は山岸さんから聞いたことをメモしたものがあるはずだが、いま行李の中のそれを探っている余裕はないので記憶で書いている。間違いがあるかも知れない。間違いを見つけたときには後で訂正するつもりで、とりあえず記憶を頼りに書いている。
51年、東北大学を中退、東京の学習院大学仏文科に入学(編入?)する。学習院には社会学者の清水幾太郎や戦後の思想界を牽引する久野収がいた。それが学習院に通おうと思った動機らしい。久野はやがて60年安保闘争の際、国会前で怪我をして逮捕され、収容された飯田橋の警察病院から逃げ出した山岸さんの逃走の手助けをすることになる。
とはいえ東京に出てきた山岸青年はあまり大学へは行かず、浅草に入り浸っていたらしい。ストリップ劇場の裏方兼座付作家みたいなことをやりながら、時には舞台にも立ったらしい。同じころほかのストリップ劇場には同郷でやはり東北大学出身の井上ひさしがいた。
たまに大学へ行くと、その目的は社交ダンスクラブのサークル活動。彼はそこでやがて伴侶となる芳枝夫人と出会っている。元々江戸っ子の気質が流れている山岸さんと江戸川区(墨田区だったか…)のチャキチャキのお嬢さんである芳枝さんは気があったのかも知れない。その学習院の社交ダンスサークルには高等科出身で東大に進学していた三島由紀夫も顔を出していたという。
そんな話を聞きながら、僕は次々と出てくる〝歴史上の有名人〟の名前に、まさに今、生きた戦後史の話を聞いていると、少し震えたことを思い出す。
山岸さんが何年学習院大学に籍をおき、また何年くらい浅草に入り浸っていたかは明らかでない。聞き取りのメモや録音を探ればわかるかもしれないが、それも今回は後回しにしよう。ともかくある時期(63年頃だから安保の後の話らしい)そろそろまともな仕事をしようと決めたらしく、新聞で見つけた銀座五番館画廊の求人に応募して採用される。そこで彼は〝雇われママ〟のような形で運営を任されて「新人画会展」を企画し、それが話題となる。ギャラリスト山岸信郎の誕生である。
新人画会とは、井上長三郎、靉光、糸園和三郎、麻生三郎、寺田政明、大野五郎、松本竣介、鶴岡政男の8人によって戦時中に結成されて活動したグループ。山岸さんによれば「まあ無産派の画家たちですね」ということになる。戦時体制下で、東京美術学校の学生にはキャンバスや絵具が支給されたが、在野の画家や画学生はそれもないなかで、絵を描き続けたという(期を同じくして放送されていたNHKの連続テレビ小説『純情きらり』の設定を思い起こさせる)。因みにやがて彼がオーナーとして開廊することになる田村画廊の第一回展は「麻生三郎展」である。
その後、新制作協会の事務局長を経て、日本橋の秋山画廊オーナーに請われその運営を任されるようになる。そして秋山画廊向かいにあった田村医院が閉院するにあたり、通りに面したビルの一階を好きに使って画廊でもやればという老田村医師の言葉で、1969年田村画廊を開廊。若い学生や作家に自由な場所を提供した。
画廊の床に穴を掘り、入口を塞ぎ、路上を疾走する車から銃をぶっ放す…。
日本橋・神田が戦後の重要な一時期、70年代日本現代美術の台風の目のような存在へなっていくのに、それほど時間はかからなかった。
(この項続く)