カレーの記憶。 補遺

カツカレー
カツカレーについて記すのを忘れていた。現在カツカレーと一般的に呼ばれるものと初めて出会ったのは、小学校高学年の頃。
父は地元で始めた自らの店の経営も軌道に乗り、本を出して名を売り、全国の同業者のところをコンサルタントとして駆け回るようになっていた。東北や北関東、北陸へ行くことも多かったが、そんな折母は東北線と上越線、高崎線が合流する大宮駅まで車で父を送迎するようになっていた。兄二人は、もう母親と行動するような年齢ではない。‪一時‬間強の運転の話し相手と、子供といえば僕一人しかいなくなった家の夕食作りの手間を省くという意味もあったかも知れない、しばしば同行し大宮まで行った。
大宮駅の駅ビルの、あるレストランで僕はそれを目撃した。写真だったか蝋細工だったか覚えていない。皿に盛られた白いご飯の上にとんかつが乗り、そこにカレーがかけられている。衝撃だった。初めて見る風景だった。そのメニューは「トルコカレー」と名付けられていた。
以来、母と大宮へ行くのが何よりの楽しみとなった。そんな日は家を出る前から「トルコカレー、トルコカレー!」と言い続ける子供がそこにいたような気がする。
カツカレーの発祥は、銀座の「グリルスイス」というのがどうも定説となっているらしい。ではなぜ「トルコカレー」なのか、(スチーム風呂から、やがて女性が際どいサービスをする入浴施設まで)発祥や起源がよく解らない魅力的なものには「トルコ」と名付ければいい、日本はまだそんな時代だった。もしかすると長崎の「喫茶トルコ」が発祥とされる、いろいろな洋食メニューが一皿に盛りつけられた「トルコライス」から着想した命名だったかも知れない。
いまやカツカレーを、いつも食べたいと思うガッツに溢れた年齢ではない。しかし30代から40代前半にかけては、よく午後の中途半端な時間帯、無性にカツカレーが食べたくなることがあった。だが理想のカツカレーにはなかなか出会えない。まずカレーが旨くて辛くないといけない。カレーには具が入っていなといけない(よくあるカツに具なしカレーソースをかけただけのものはいただけない→「C&C」では「ポークカレー」をかける)。そしてとんかつは揚げ立てでないといけない。キャベツの千切りや生野菜についてはあってもなくてもいい。結果、とんかつ屋のカツカレーこそが、理想に近い可能性が高いという結論に達したのだが、残念ながら午後の中途半端な時間に開いているとんかつ店はほとんどなく、午後休みをしない洋食屋やそば屋、うどん屋を彷徨い探索する日々がしばらくあった。
最近では数年前、洋食大好きシェフ斉藤元志郎氏のプロデュースによるカレー店、虎ノ門「ジーエス」を訪ねたが、さすがやはり理想に近いカツカレーであった。ただ現在の僕にはカツのボリュームがありすぎた。そして上質な肉の旨さを残すためだろうか、ミディアムレアに仕上げている。とんかつとして、あるいはカツ丼だったらいいかも知れないが、カツカレーには少し不似合いなのではないかとも感じさせた。

「バンダラ ランカ」
前稿は「記しておくべき記憶は人生の前半までがすべてのような気もする」と終わらせたが、最近出会った「バンダラ ランカ」についても触れておこう。数年前に四谷にオープンしたスリランカ料理のレストランである。ホテルマンとして来日した上品な物腰のスリランカ出身のご主人と日本人の奥さん、おそらく30代の夫婦が経営している。
昨年初め、なにかで情報を得て4月の妻の誕生日に行こうと約束した。ところがコロナで東京には緊急事態宣言が出される。お店も自粛しテイクアウトだけの営業となった。電話をかけ、予約し、スリランカプレートをテイクアウトし、家での誕生日ディナーということになった。だがそのテイクアウトプレートが絶品だった。数種のカレーとビリヤニ、複数の惣菜が一皿に盛られている。美味かった。香辛料使いがとても真似できるものではないと感じた。
なにかを食べて、本当に美味しいと感じたのはこれまで何回あっただろう。素材そのものの味ならそれなりにあった気はする。だが磨かれたプロの技に、あるいは永い時とともに築かれた文化に、舌を巻いて感動したことはそれほど多くない気もする。20年くらい前、いまは亡き周富徳氏が料理長をしていた頃の「赤坂離宮」へ行ったときの感動を思い出した。
たとえ人生の後半に差しかかっても、たまには感動がある。

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