山岸さんのこと。(1)
少し前にこんなtweetをした。
https://twitter.com/tashpo/status/1518017728124456960
「アートスペース蔵王」での野外展には冬と夏、二度参加している。しかし僕の記憶には夏の、土の地面が円形に現れるよう伸び放題だった雑草をひたすら抜いた思い出しかない。この写真を見て冬には小高いところに雪を積み上げて立方体(のようなもの)を作ったのを思い出したが、雪の山形で記憶に残っているのは、中古のワンボックスカーがチェーンを巻いても滑りまくったことだけだった。
野外展は苦手だった。ホワイトキューブで制度と対峙しているつもりだった身にとり、大自然を前にしてできることなど何も思い浮かばなかった。隣で坪良一は、いつも黙々とかつ明るく、穴を掘り続けていたが。
「アートスペース蔵王」は、神田で田村画廊、真木画廊を経営し、駒井画廊を運営していた山岸信郎さんの実家の土地で、そこを借りていた幼稚園が閉園したのをきっかけに始めた、まあ空き地で展覧会でもやんないか的な場所だった。周囲には山岸さんのお父さんが所有し近所の農家に貸していた果樹園が広がっていたと記憶する。
東京の本郷生まれで兄弟の中唯一鹿児島大学を卒業し(兄たちは全て東大)、東北大学の勤務医から山形に移り開業医となったお父さんが、なぜそんな土地を山形市内に所有していたか定かではない。本郷の実家が、明治期に絹の取引きか何かで成功し本郷〜湯島一帯の土地を広く所有する豪商だったと生前の山岸さんから聞いた。裕福だったのは間違いないのだろう。また医者と農民の経済格差が今では想像もできない程開いていた名残りかもしれない。
当時90歳を超えていた山岸さんの父は、温和で、縁側の揺り椅子に座ってずっと蓄音機から流れるクラシックを聴いている(息子の山岸さんとは似ても似つかない)、当時女形の頂点にいた歌右衛門を彷彿とさせる美男子だった。山岸さんの言葉を借りれば、仙台にいたころ下宿先(米屋だったか酒屋だったか)の娘が二階で小唄か何かのお師匠さんをしていて、それを習っているうちに山岸さんのお姉さんが出来ちゃったらしい。
趣味人だったのだろう。その話のあと山岸さんはこう続けた。「子供のころ俺は親父にちっとも似てなくてブサイクなので、あんたは橋の下で拾ってこられたんだと姉たちにいじめられた」「俺はエリート一家の落ちこぼれの親父の家の、さらに落ちこぼれの息子ってことんなるな」。
芸大の油科で二つほど下の学年だった青木君が、湯島でバーを開いたとき挨拶状が来たらしい。「住所見たら俺の本籍地なんだよ」と仙台生まれの山岸さんは言っていた。青木まだ、あのバーやってるだろうか。