いだいなしょうがいのものがたり。

『偉大な生涯の物語』という邦題がつけられた映画がある。原題は『The Greatest Story Ever Told』。『シェーン』『ジャイアンツ』『アンネの日記』のジョージ・スティーブンスが自らプロデュースした1965年のハリウッド製「エンタテインメント」である。原作の日本語版抄訳には副題に「イエス・キリスト伝」とある。
巨匠のハリウッド作品にもかかわらず、今やほぼ映画の言説から忘れ去られている感のあるこの作品に、中学生のときかなり感動を覚えた記憶がある。とにかくエンタテインメントとしての作りが上手い。いくつかのシーンは『アラビアのロレンス』のデヴィッド・リーンがメガフォンを握ったらしい(砂漠の撮影に慣れているからだろうか)。

東京から電車で50分ほどの街でそれなりに裕福な地主家の一人娘と結婚し、戦後どさくさの中でそこそこ事業にも成功して経済的余裕が出てきた父は、いつからか三人の息子たちを東京の私立中学へ入れることを画策し始めたらしい。しかし小六になってから四谷大塚に通うようになった長兄は、願い叶わず地元の公立中学に入った。小四の後半から通い始めた次兄は親の期待に応えて開成中学に入学する。
三番目の僕は兄ほど親の期待に応える意欲を感じることもなく、半ば義務的に小四の終わりから四谷大塚に通い、クラス分けテストのたびに最上クラスから最低クラスまでを行ったり来たりして、結局麻布・開成・武蔵の御三家にはとても届かず、教育大小石川、学芸大駒場といった国立系も通学時間制限で願書を出すことも叶わず、安全合格ラインの二校を受験し渋谷のミッションスクールに通うことになった。

これは人によって相当違いがあるのだろうが、入学前の僕はミッションスクール=キリスト教系教育というものがどんなものなのか、かなりのプレッシャー、言い換えれば恐怖に近いものを感じていた。キリスト教というものに一切触れたことがなかったし、60年代末といえばすでにいくつもの新興宗教の事件や問題も報じられていた。同時に時代はリアリズムの時代、メディアの発信者の多くは左翼思想を経て宗教に否定的な言説も多く、どちらかと言えば僕の中で「宗教=恐ろしいもの」という図式が出来つつあった。
しかしこれは後になって聞いたことだが、母方の祖父は若い頃、地元の古いキリスト教会の存続と檀家である曹洞宗寺院の存続にともに奔走しかなりの援助をしたらしい。何も知らない孫はいずれ教会関係者からも寺の住職からも感謝の意を伝えられることになる。世代や時代によって宗教というものについての感覚も大きく異なるということだろう。

渋谷駅を降りると、地上2階にあたる東横線中央改札から東急文化会館2階を繋ぐ通路があり、僕の通う学校の生徒たちは皆坂の上り下りを省略するためそこを通って通学した(通路の先はそのまま少し土地が高くなった一般道に通じていた。その辺りの構造は今の渋谷ヒカリエでも変わっていない)。東急文化会館には「渋谷パンテオン」「渋谷東急」「東急名画座」の三つの映画館が入っていた。通路からはその目の高さに三館の巨大看板が見えた(東急名画座は少し小ぶりだった)。

東急名画座では二週間毎に、主に40〜60年代の旧作洋画が上映され150円で観ることができた(もぎりのカウンターには創刊されたばかりの自費出版雑誌『ぴあ』が置かれ、僕は第2号で発見して以来毎号買うようになる)。テレビでは月曜から日曜までの毎日、いずれかの民放が午後9時台に旧作洋画の放送枠を設けていた。70年代前半といえば人が映画館に足を運ばなくなったピークだと思うが、映画の人気が衰えたわけではない。東急名画座のほかにも都内に数多くあった名画座=旧作映画上映館では「むかしの」日本映画、外国映画を上映し、よく行列もできていた。
一方で日本映画は「斜陽産業」と言われすでに何年も経っていたし、アメリカもニューシネマの時代、大ヒット映画といえば『ゴッド・ファーザー』『エクソシスト』くらいしか思い浮かばない。そのコッポラとフリードキン、そしてボグダノヴィッチ(※1)の映画キチガイ若手監督三人がディレクターズ・カンパニーを立ち上げるが、アメリカ映画が産業として再構築され映画館に客足が戻るまでにはスピルバーグ、ルーカスといった次の世代の登場を待たなければならなかった。
そんな70年代だったが、しかしまだハリウッドは映画を作り続け、東宝、松竹系の配給会社は輸入を続け、全国の系列ロードショー館にかけ続けた。パンテオンと渋谷東急のロードショー館も2〜3カ月の上映を見込んで新作をかけるが、大抵館内は閑古鳥でとても2カ月持たない。そんな時は予定を変更して新作上映を打ち切り、配給会社からすぐ借りられる客入りの見込めるフィルムをリバイバル上映と銘打って上映した。『風と共に去りぬ』『ドクトルジバゴ』『ウエスト・サイド物語』『シェルブールの雨傘』『ファンタジア』あたりは定番だ。この感動は映画館でなければ味わえないだろうといった映画が並んでいる。『ファンタジア』あたりは「これが本邦最後の上映」と何度謳われたことだろう。

そういった時代に毎日ロードショー館の大看板を見ながら通学していた僕はある日『偉大な生涯の物語』を観ることになる。キリスト教教育の方はといえば、それほど恐るべきものではなかった。毎日行われる礼拝で賛美歌を歌うことや祈ることも嫌ではなくなっていた。むしろそれをきっかけに神や自然や宇宙の成り立ちに想いを巡らすことが楽しくなり始めていた。
イエス役はベルイマンの映画で国際的知名度を得たマックス・フォン・シドー、物静かな演技がハリウッド俳優にない崇高さを湛えていた。洗礼者ヨハネはハリウッド製スペクタクルエンタテインメントコスチュームプレイには欠かせないチャールトン・ヘストン(※2)だが、それほどオールスターキャストというわけではなく、クセの強いベテランに若手や外国人俳優、舞台俳優などが脇を固めている(ジョン・ウェインがちょこっとだけ顔を見せているのはご愛嬌だろう)。巨額を投じた大作だがあくまでプロデューサーの映画ではなく監督のプロデュースによることがキャスティングにも表れていた。

そんな映画を一人で観に行った中学生の僕は、後半感動に打ち震え涙を流していた。作者の思う壺だ。とにかく作りが上手い。ハリウッドとそこで巨匠と言われた人の底力だろう。クライマックスに流れるヘンデルのハレルヤコーラスで再び涙を流すため、僕は時間をおかずパンテオン(渋谷東急だったか)に何度か足を運んだ。僕の記憶の中では紛れもなくハリウッドの巨匠による傑作なのだが(※3)もう映画史でこの作品についての言及はあまり見かけない。もちろん聖書の物語を忠実に再現しようとしているから(最後の晩餐で分けられる「パン」はダ・ヴィンチの絵のような膨らんだ西洋風パンではなく、平たい中東風のパンだった)オリジナルな発想や視点があるわけはない。今やほぼ忘れられた映画でもあるが、ミッションスクールや教会では上映会が開かれる機会があったりするんだろうか。そして今でも僕は、この映画を観たら感動に打ち震えるだろうか。


※1
中3で観たピーター・ボグダノヴィッチの『ラスト・ショー』(The Last Picture Show)は僕の心の中の最高傑作、『ペーパー・ムーン』以降あまり名前を聞かなくなったのが寂しい。ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』は『ラスト・ショー』の焼き直し。時代を少しずらして舞台をちょっとだけ賑やかな街にすれば、同じ物語がこうなる。後の『ニュー・シネマ・パラダイス』に連なる登場人物が映画館で旧作映画を観るシーンが印象的な(かつその映画が長時間流れる)演出の嚆矢だったのではないだろうか。
※2
チャールトン・ヘストンといえば(晩年の全米ライフル協会会長職は置いといて)『ベン・ハー』である。小学生でこの映画を観た僕はいっとき嵌った。キリストの生きた時代と土地を舞台にしたこの映画にはやはりイエスが登場するが、顔が映ることはない(かつての日本映画の昭和天皇と同じだ)。このウィリアム・ワイラーによるハリウッド超大作が、映画を観ながら感動に打ち震えた最初の体験かも知れない。でも今から考えると最も僕に衝撃を与えたのは、夕刊の最終面テレビ番組表の下に8段抜きくらいで掲載された広告の、「BEN HER」の文字が巨石造りのようにイラストで表現され、その上で何万という人々が戦車レースを応援するグラフィックではなかったかと思う。
※3
ジョージ・スティーブンスとウィリアム・ワイラーは50〜60年代のハリウッドを代表する二人の職人的巨匠だろう。ラブストーリーから超大作まで、なんでも手掛けて見事なエンタテインメントに仕上げた。ディティールの演出の細やかさは流石で70〜80年代に日本で盛んに作られた「社運を賭けた超大作」に完全に欠けている部分だった。『シェーン』のクライマックス、長い静寂の後にジャック・パランスが吹っ飛ぶワンカットは忘れられない。おそらく黒澤明の『椿三十郎』のラストシーンに大きな影響を与えている。

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