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noteの効果、嘘、難波田史男 往復書簡#34

画家・小河泰帆さんとの往復書簡34回目です。
前回はnoteの効果について、小河さんの場合でした。

作品管理表やスケジュールメモが参考になったとのことで、お役にたてて何よりです。確かにここまで細かい話は、作家同士でも普段あんまりしないかも知れないですね。
絵を描いていて完成間近になると、他人にとっては何が違うんだかよく分からないようなレベルの微々調整を繰り返しますが、この作業は自分の感情のわずかな揺れを頼りにすすめるので、心の動きにすごく敏感になりますね。最高だなと駄目だわの間を何往復もして、消耗しながらジャッジを積み重ねていき、最後のちょっとしたさじ加減を決めてく感じです。
その一方で、普段の生活や事務作業というのは、感性を意識的に少し鈍らせていくことで何とかこなせていけるような側面があります。ものすごく面倒くさくても、その感情とは極力向き合わずに見て見ぬふりして行動にうつさないといけない。真逆だから難しいです。

タシロさんも今まで書いたことで何か思うことがあったら教えてください。
noteの効果と思ったこと。小河の場合 往復書簡#33より

前回の続きになっちゃいますが、自分の言語化についてのナーバスさにびっくりですよ。相手と状況によりますけども、言いたいことはなるべく正確に伝えたいので、そのための労力は払います。まだ言語化できるほど整理できてないと思えば、できれば保留にして感情が貯まるまでは黙りたいですね。

言語については、私、あまり言葉を信用してないところがあるんですよね。言葉ではなんとでも言えるし、言うだけはタダ。辛かったり暗かったりは嫌だけど、面白ければ許される~って思ってる。めちゃくちゃいいかげん。そして人は行動では嘘をつけないから、本当に思ってることは言葉ではなくて行動に現れるって思ってるんです。

noteの効果と思ったこと。小河の場合 往復書簡#33より

やはり、小河さんは行動を信用するのですね。絵画制作にあたっても、頭で考えるよりまず行動って書かれてました。身体表現ありきのスタイルが一貫してますね。

私は言葉を信じてますけど、利便性や有用性を信頼している感じです。限界はあっても道具として優秀だと思います。
嘘に関しては、明確な悪意のあるものは論外として、私はもっと複雑なのではと考えています。言葉と行動は、言語化と身体表現という表現手段の違いだと捉えていて、生まれつき器用な人や技術を磨いた人ならば、言葉でも行動でも上手に嘘つけると思うんですよね。あと嘘であっても、長期的にその表現をやり続けるなら本心と区別つかないので、結局当人の内面の問題でしかなく、嘘の定義がよく分からなくなってきます。
そもそも嘘は隠された本心があることを前提としていますが、現実世界の嘘は当人も本心を自覚していなかったり(だからその場しのぎで発言する)、何種類もの本心を同時に抱えていたり(その瞬間における本心を選んで言っている)して、結果的に嘘になってしまうパターンも多そうで、場や相手の様子をおもって小さな嘘を自覚も悪意もなく、皆さん日常的に言葉と行動でついてるのじゃないのかしらと想像してます。私自身も含めて。
こんなふうに現実世界をみているから、私の描く絵はグレイッシュなんだと思いますよ。どんな嘘でもなるべくならつきたくないですが、悪意のない小さな嘘は優しさからの派生だったりして、もしも色で表現するならば少し濁った、でも意外ときれいな中間色なのではと思います。

さて話はかわって。

先日、抽象作家のグループ展にて可愛いとても小さいキャンバス作品をみました。蒲鉾板くらいの大きさで素敵だったのですが、描き手としては難易度の高いサイズだなと思いました。ここまで小さいと、線の勢いを出すための広さが確保しづらいし、余白や粗密の対比も付けにくい、要素を増やすとミニチュア絵画になってしまう、等々の問題がすぐに浮かびます。

私が個展などで発表する作品は通常、0号(14×18cm)~100号(130.3×162cm)なので、その作品サイズならば今は慣れています。でも卒業したての頃は、100号は結構大変な大きさで息切れしながら描いてました。実は100号克服のきっかけになった展覧会がありまして、2014年に世田谷美術館でみた難波田史男の展覧会です。なんだか啓示を得たような気になって、以来だいぶ楽しく描けるようになったんですよね。大小・比率にあわせて絵のつくりかたを変えるコツのようなものを、感覚で理解したのかもしれません。

「難波田史男の世界ーイメージの冒険」展
とてもよかったです

小河さんは描きやすい作品サイズありますか。もしあれば理由や、苦手サイズ、大小・比率など作品サイズにまつわるお話を教えてください。