ウォーハンマー アンダーワールド 突撃アクションの一部として薙払いできるのか問題について その1
ウォーハンマー アンダーワールドにおいてたびたび揉めるルール
突撃アクションの最中に(の一部として)薙払いできるのかどうか問題。
私は総合的に判断して、できる派 です。
(※移動後に2体以上の敵ファイターと隣接したとしても、できる派です。)
ちなみにsteamのオンラインゲーム ウォーハンマーアンダーワールドワールドオンライン(日本語未対応)では突撃アクションの一部として複数体に薙払い攻撃ができます。
ウィンターモウのコアルールで和訳かなぜか悪改変され、(ウィルドホロウの和訳の方がマシだった。)
事実上、できない派も根強く残っており、できない裁定で大会が行われることも少なくない。
できない裁定はかなり流行っている。
私自身も混乱している。
ここではなぜ私が「できる」と判断したかを記す。
念のため、言っておくと
私はできない派の誰かに対してマウントを取りたいわけではない。
正しいルールで遊びたいと思ってるだけである。
そして、できない派の人も同様に正しいルールで遊びたいと思ってるだけだって知ってる。
まず事前にこれを知っていないと話にならないことをあげる。
薙払いアクションは、複合アクション(英 Superaction)である。
突撃アクションによる移動の処理の後に突撃トークンが置かれる。その後に攻撃の処理が始まる。
突撃アクションも複合アクションである。
そして、問題の最新ウィンターモウのコアルール27ページの日本語訳がこのようになっている。
突撃アクションの移動後に突撃トークンを有する状態になるため、突撃アクションの一部として複合アクションである薙払いはできないとするのができない派の主張である。確かにこの和訳ではそう読める。
しかし、この和訳は本当にひどく英語本文と違う。かなり驚きました。
特に「命令中に」という英文にはないオリジナルフレーズを加えている。
ウィンターモウのコアルールの和訳が大きく違うのは、かなり謎なのだが、和訳した人ができない裁定でルールを理解している日本人で、このルールで揉めないようにオリジナルを加えてしまったようにも感じる。客観的な翻訳ではなく、自分の裁定に寄せるようにしてしまったのか? この推測が正しければ、和訳スタッフができない裁定に寄せる翻訳に改変してしまうため、できる派の私は日本においては絶望的である。
話を戻そう。
英語ルールはこのようになっている。
そして上記英文をグーグル直訳したものが以下である。
「1 つ以上のチャージトークンを持つファイターは、生き残っている味方ファイターが 1 つ以上のチャージ トークンを持っていない限り、アクティブ化できません。 1 つ以上のチャージトークンを持つファイターがアクティブ化された場合、そのファイターはスーパーアクションを行うことはできません (pg 37)。」
直訳だとactivatedをアクティブ化と訳しているが、
このactivateはアンダーワールドのルール用語だと思って良い。日本語では命令、命令の実行などと訳されている箇所が多い。(統一されておらず、箇所によって違い、訳されてすらない箇所もある。)
日本語ルールの都合で「命令」と訳せば良い。
例えば、アンダーワールドの1ラウンドは4回のactivate(命令)を交互に行なって終了フェイズになる。というふうに使われる。
またスーパーアクションはルール上、複合アクションのことです。
ということで、わかりやすく訳を直すと以下のようになる。
「1 つ以上の突撃トークンを持つファイターは、生き残っている味方ファイターが 1 つ以上の突撃トークンを持っていない限り、命令できません。1 つ以上の突撃トークンを持つファイターが命令された場合、そのファイターは複合アクションを行うことはできません (pg 37)。」
ウィルドホロウの日本語コアルールではこれに近い訳になっていた。
この文面を素直に文脈を理解して読むと、
全ての味方ファイターに突撃トークンが置かれているときだけ、突撃トークンが置かれている味方ファイターに命令することができるけど、その場合は複合アクションはできないよ。というルールを伝えたいものだと私は理解している。
結論、突撃アクションの一部として薙払いできる。全ての味方ファイターに突撃トークンが置かれているときだけ、突撃トークンが置かれている味方ファイターに命令することができるけど、その場合は突撃複合アクションや薙払いの命令はできない。と私は考えてる
またできない派は
このルールテキストは2つの文で構成されており、改行がされていないのだが、2つ目の文だけを注視しているように感じる。
文脈的にこの2つの文は
全ての味方ファイターに突撃トークンが置かれているシチュエーションでの追加ルールを説明している文であると考えるのが自然だと思う。
そして、更に事態を混乱させる
和訳ガバガバのデザイナーズコメンタリーがあるが、それについては別の記事で。
その2に続く