○○から見たトランスジェンダーの私その④職場の上司のO元園長から見た私
「男でありたい自分をどう周囲に見せたらいいのか、田崎さんは迷っていました」(O元園長)
田崎さんのことを知るずいぶん前のことです。私の子どもの幼馴染に、保育所に通っている時期から、自分のことを「オレ」と言い、髪もお兄ちゃんよりも短くしている、活発な女の子がいました。周囲の大人は「この子、男の子みたい」と言っていましたが、保育所のほかの子どもたちはそんな彼女を素直に行け入れ、野球ごっこやドッチボールに誘っていました。
小学校に上がるころには、「オレ」が定着し、もうだれも何も言いませんでした。田舎の小さな小学校でしたから、ずっとクラスは変わらず、その子を取り巻く友達の顔ぶれも変わりませんでしたから、それが当たり前になったのでしょう。
その後、小学校の卒業式の予行練習で、中学校の制服のスカートを履かなければ卒業式には出せないと、先生から言われたと聞きました。結局、スラックスを履いて卒業式に臨みましたが、女子で1人だけスカートを履いていない彼女に、特段だれも何も言わず、卒業式は無事に終わりました。
ただ、その子は、中学校に上がってからは不登校気味になったという話を聞きました。
そんな経験もあり、田崎さんが、私が園長を務めていた児童発達支援センターに入職してきたとき、「彼女はもしかして…」と感じるものがありました。
実際、田崎さんは、ほかの女性職員とはかなり雰囲気が違っていました。前の職場の管理職から「田崎さんは、何でも雑に扱うから気を付けるように言ってあげてください」と申し送りを受けていましたが、正直、田崎さんは「雑」でしたね。
職場でのエプロン姿も彼女には何となくしっくりこない、よそよそしい出で立ちに見えました。そして、彼女はいつも廊下をばたばた走っていました。まるで自分の存在をアピールするかのように、肩を張り、少しわざとらしく見えるガニ股で。それを見るたび、私は「保護者や子どもたちに見られると困るような行動はダメですよ」と注意しました。また、子どもの手を引くときにも、力が強く入ってしまうことがあったのでこれも注意しました。
田崎さんは、今ならそんな行為は絶対しないと思います。なぜなら今は「素」の自分でいられるからです。つまり、私と出会った当時は、女として生まれたけれど男でありたい自分を、周囲にどう見せたらいいのか、迷っていたのだと思います。
一方で、障害のある子どもやその保護者には、田崎さんはとても熱心にかかわっていました。私たちの仕事は、目の前にいるのはかわいい子どもと、不安で押しつぶれそうになっている親を支えることです。田崎さんは、自分の置かれている境遇を、子どもや保護者の中に見つけて、仕事と向かい合っていたのだと思います。子どもたちの個性を受容するように、自身の個性を受容できるようになったのは、ずっと後のことだったように思います。
田崎さんが、ホルモン療法を開始したこと、将来的には、性別適合手術を受けようと考えていることを私に打ち明けたとき、田崎さんは「このままここで働いて良いのでしょうか」と私に尋ねました。
私は「不安を持っているなら、いっそ職場を変えるのも1つの案では?」と言ったと思います。新しい人生を生きようと決意したのだから、今までのしがらみから解放されて、社会に向き合った方が得られるものが多いかもしれない。しんどい思いもするかもしれないけれど、自分の気持ちを大事にして、自分らしく生きてほしいと思いました。
その後、トラック運転手の仕事に挑戦してみたけれど、うまくいかず、 体を壊してしまい、私の元に戻ってきましたね。田崎さんは泣いていました。辛く、悔しく、寂しく、不安だったことでしょう。私は、田崎さんを励ましました。
でも、最後は自分で立ち直り、自分で前を向くしかありません。私は田崎さんを励ましながら「やっぱり世間は厳しいね。それでも、少しずつでも前向きに生きていこうと考えているなら、私は協力するから」と言いました。そして、田崎さんは改めて、障害のある子どもとその保護者を支援する仕事を天職として選びました。そして、自分の信念に従って、つらい治療に立ち向かいました。今、一番の理解者であり協力者を家族に迎えて、よりたくましく日々を生きていらっしゃいます。
金子みすゞが「みんな違ってみんないい」と個人の生きざまはそれぞれ異なることで人の世ができることを、短い言葉に込めました。私はこの詩が好きです。障害があろうがなかろうが苦労するときにはするし、大声で笑うときには笑うし、怒る。みんな違うけど、でも、みんな同じように、当たり前の感情を持って生きています。
田崎さん、きみは強いね! きみは強い人だ! がんばって今後も活躍を!
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