優生学はなぜタブー視されるのか論の論評
最近はてなブログのほうでいくつか優生学に関して持論を展開する流れが続いたので、持論を追加しておきたい
今までの議論の流れ
A氏:最初の記事、問題提起
雑な要約:優生学って有効そうなのになぜタブー視されちゃうのかな?どこまでがセーフでどこからがアウト?知りたいな。
感想:ここまでは別にただの問題提起で良かったと思う。
B氏:最初の記事に対する生物学的見地からの反論
雑な要約:生物ってそもそも複雑性が高くて、狙った通りの完璧超人なんてどう逆立ちしたって作れないんだよ。だから優生学なんて無駄。
C氏:生物学的にってお前間違いだらけだろというツッコミ
雑な要約:前の記事なんだけど、生物学的にって、個別の内容見たらめちゃくちゃじゃん。実際に、人間以外の動植物においては優生学で成果が上がっている。優生思想がタブーなのは科学の結果じゃない。
D氏:いやいや、承のツッコミもそんなに間違ってはなかったよ
雑な要約:優生学で実際に成果を上げることは生物学的に観ても可能だ。しかし、人間は動植物じゃないんだから、数世代に渡る淘汰なんて出来はしないんだから人間には優生学は適用できない。
総評
この4人の中で、一人だけ視点が違う人が、C氏で、「もうなんか間違ったことしか書いてなくて、、、」の記事を書いた人だけ。
他の人は、結局「科学的に言って有効かどうか、」とかの視点でしか書いてない。B氏もD氏も「科学的に意味がないから。」と結論づけているが、B氏だけは「科学的には意味があるが、そもそもそんなこと関係なくタブー」と記載している。
そして私も同じ立場。優生学を縛るのは倫理しかない。
B氏の主張である、完璧超人はできない。は正しくても、だからといって優生学は無駄とは結論付けられないんだよね。「オリンピックで強くなるために短命でもいいので足の早い超人を産ませよう」プロジェクトが発足した時や、「犯罪傾向の強い民族の子供の数を制限しよう」というプロジェクトを否定する材料にはならない。
D氏の主張もマイルドではあるが実はB氏と同じで、上記のようなことは社会が許さないから人類には適用できない。と言ってるだけ。
しかし、歴史的に見ると「犯罪傾向の強い民族の子供の数を制限しよう」というプロジェクトは実際に実行されてる。しかもリアルタイムに今でも。
ここから持論であり結論
優生学は有効だが有効であるからこそ、社会によるその実施は倫理で縛られ、タブーとしなければならない。なぜならばその倫理やタブーは大切に意識した上で守り続けなければ簡単に覆るから。
特に日本人には絶対的な宗教がなく、絶対的、永続的な倫理が存在しないので、その分強く倫理を意識しなければならない。倫理抜きで優生学を語ってはならない。
優生学との戦いは、自由を奪おうとするものとの戦いである。
自由恋愛をする自由、子供を産む自由、産まない自由。すべて個人の自由であり、社会によって指定されるものではない。
産まれてきた命は産まれてきた本人自身のものであって社会のものではない。
そしてこれをこういった形でブログで垂れ流すことができるのも今この国に自由があるからで、なくなってからではもう遅い。
ついでに
優生学を語る際に必ず以下の主張がでてくる。
そして結構賛同を集めている。
・どの遺伝子が正解かわからないので、遺伝的多様性を増やすことが生物学的に正しい生存戦略である。だから優生学は駄目
私はこの主張が大嫌いである。理由は「個人の命が社会にとって有効であるかどうか」という指標から抜け出すことができていないエセ科学だから。もし、トータルでみてやっぱり害悪だわ。とされたときに殺すことすら正当化されてしまうので。