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あれもこれも全て洗脳


小学生のとき、連絡帳に日記を書く宿題があった。その日記を担任の先生が読んで返事を書いてくれる。日記の他にも運動会や社会見学、遠足などがあるとひっきりなしに感想を求められた。こういう感想文を書くときの定型文として、何を学んだか、何を知ってどう思ったかという今日の振り返りと、これからどうしていきたいかという未来への行動を書くようにしていた。これさえ守れば、本当に思ってもいないのに優秀な生徒として見られるから、印象操作ってなんて簡単なんだろうと小学生ながらに思っていた。もしかするとこのときから私は捻くれていたのかもしれない。



未来への行動の部分には「一生懸命」「全力で」「最後まで諦めず」を乱用していた。これらの言葉を文章にはめ込むだけでそれなり良い子で真面目ちゃんの文章が完成する(と思っていた)。今、この言葉を見ると吐き気に襲われる。きらきらしていて、前に進むことしか興味のないようなポジティブワードだけの世界になんていられない。当時は本当にそう思っていたのかもしれないし、それを体現していたかもしれない。確かに、行事には手を抜くことはなかったし率先して委員長や班長など先導となる立ち回りに立候補していた。これは、今思えばただの”洗脳”だったんじゃないかと思う。



洗脳の仕組みの真理に触れた気がした。最近はそれなりに就活に力を入れていたのに、ふと我に返った途端「なんでバイトに行きたくもないのに会社で働くために就活やってんだろ」と思ってしまった。この瞬間、洗脳が解けてしまったんだと感じた。人生の頑張り時は全て洗脳で乗り越えていかないと駄目なのだと気づいてからは洗脳をし続ける努力が必要なのだと悟った。就活を本気でやりたいと思ってやっている人、バリバリ働きたいとか理想のキャリアを夢見て就活をしている人はいるのだろうか。絶対いる、そりゃそうだ。その人たちはきっと自分が自分に洗脳をし続けていることに気づいていないだけだと私は思う。この社会に見合った、この社会の型にはまった人間として”ちゃんと”生きていくために洗脳して、「やらなきゃ」「こうしないと」と思わせていく”作業”みたいなもの。口に出すことでそれが正しくて周りから認められる行為なのだと頭に擦り込む。そしてそれを行動に移すと徐々に馴染んでいき、社会にぴたっとはまれる人間として生きていくことができる。そこには何の違和感すらも感じない。これが私の思う洗脳のメカニズム。



一生懸命とか全力でとか頑張って生きるとか、心の底から言っているとはどうしても思えなくて、私にはこれら全てが洗脳という作業によって生み出される感情や行動としか思えない。そのくらいには心が屈折している変化を遂げた。小学生のときは、この洗脳に気づいていなかった。本当に全力で物事に取り組んで、だから失敗したときには悔しくて泣いて、次は絶対と鼓舞していた。一生懸命生きていた。歳を経て、今までのあれこれが全て洗脳によるものだったのかもしれないと気づいてしまった。確信的である実証もないけれど、ありえないくらいに腑に落ちてしまった。洗脳を上手く使いこなすことができる人がこの世界で”ちゃんと”生きていける人なら、私は死んでもおかしくはない。きっと今は、断崖から落ちたけれどなんとか崖から突出している岩にしがみついている感じ。



定期的なやる気の補填とこまめな修正を重ねていけば洗脳から解かれることはないのだろう。これを実施している今、洗脳されている実感がある。「私は就活生で、企業が求めている人材として成長を遂げ、社会に貢献していくのだ。そのためには自分の強みをアピールして内定をもらうため様々な対策をする必要がある」洗脳の呪文がこれである。その対策としてSPIやらESやら面接練習をする行動に移す。まだ学生なのに、やりたいこともないし社会貢献意欲の欠片もないのにという違和感を感じなくなるほどに就活が馴染む。私が私でいられるのは有効期限があるのだと言われているような気さえしてくるうちは洗脳が足りないのだろう。



こんなことを書いておいてなんですが、私は心がひん曲がっているのでこの考え方を素直に受け止めないことをおすすめしておきます。単なる個人の見解に過ぎないし、決して頑張っている人を侮辱したくて言っているわけではないのでご承知願います。こうやって保険をかけておかないと心配なくらいにはこの世界に馴染むことができていません。
この世界が水なら私は油です。


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「生きろとは言わんが、死ぬな」
と言われたい。






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