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選択肢を洗濯

自分の幸せは、自分の選択から出来ている。

それを強く感じる。

ともかく、なんとなく幸せと感じられる余裕があるときには幸せだし、
自分にその余裕がない時にはそれは幸せではないのだ。

あの時に1本前の電車に乗ったから出会えた人とか
あの時に気は進まなかったけどとりあえずいったらお気に入りのものが買えたとか
あの時に迷ったけど発した一言が全てを変えたとか、
そうやって、自分が選んで得た結果は、ちゃんとそれで幸せになっていると,自分が思うものなのです。

だから!

失恋や就職活動での、自分が選択していない結果が突きつけられたとき、
自分の幸せとのすり合わせが出来ずに苦しむ。
私が選択していない、捨ててハズの選択肢が突然に突きつけられて、
どうしてよいのか分からなくなっていた。

きっと、その結果を招いたのは恋愛においては『余計なことをいう』や『重たい女になる』という選択肢をしているからで、
結局、人が苦しむ際にも同様に自分の選択肢によって苦しめられていることになる、ということか。。。

だから、自分が行うことの全ての『選択』に責任とリスクを背負って行わないといけないのだな、と気付いたときには少しスッキリした。

単純に、ラーメンを頼むかチャーハンを頼むかだってそうだし、
話しかけるのを右の人にするか左の人にするかだってそうだし、
電車の車両選びだって、
全てがその選択からの自分の生活の土台作りになっているのだな。と。

私は、運命だっ!と思っていた人にいきなり振られて、それっはそれは、自分のからだにどれだけ水分あるんだ!?ってくらい泣いていたし、
会社でPCをみながら目が真っ赤になったり、
帰りの電車にいくまでに何度も泣いたり、していたけれど。。。。

自分の心臓を取り出して、塩漬けにして鍋にいっぱいのハーブで煮込んで
あらゆるスパイスを入れてあげないとなくなってしまうくらいすっからかんになっていると感じていたけど。

今は、私の選択によって私は振られるという運命をたどっているわけだし、私のなかにある選択肢がそもそも淀んでいたから、私が選択しなかった“破局”の道を歩まざるを得なくなってしまったのかなと。

だから、私はそもそもの私の選択肢を洗濯することにした。

つまり、振られたことには確かに私が悪かったところも沢山あったから、もう同じことで振られたりすることがないように
抜本的に自分の性格を変えてしまうということ。

なんだか、前は全然意識はしていなかったけれど、
最近は、少し自分も洗濯されてきたからか、
ひねくれて、ふてくされていたらしく、友人をご飯を食べるとどこかで打ち合わせしたかのように
「明るくなった」とか「ふくよかになった」とか「幸せそう」といわれるようになりました。

失恋だけしてたら、私は負けたままだけど、それによって私は成長したのならそれは無駄じゃないって思う。

自分に余裕があったり、明るかったりすると人にも良いHAPPYを分けてあげられる気がする。

いいんだ。コレで私も大丈夫。きっとみんな大丈夫だから。

Happyを皆で分け合えますように!!

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