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"OMG"を初めて聞いたときに感じた「3つの違和感」から考える4.22

57にもなって、4.22以降、人生が大きく変わった。は、さすがに言い過ぎだとしても、生活の中心に常にNewJeansがいる日々に変わった。いまもそれは続いている。そのかん、これから書こうとしていることを書いてはやめ、書いてはやめていた。理解してもらうための前提が多すぎて、事態は日を追うごとに多岐にわたっていき、何より、書いたところで読んでもらう相手が誰もいない、ということを言い訳に、半年間サボっていた。

だがさまざまな証拠が提示され、それにともなってHYBEの卑劣さや愚かさが明らかになっていくにつれ、この文章にはそれなりの価値があると思えるようになってきた。うまくできるかどうか自信はないが、やってみようと思う。

主張の要点としては、この問題を正しく理解するためには4.22以前にNewJeansが何をしていたのかを理解しておく必要があり、その核心は”OMG”にある、ということを述べたい。

ちなみにこの考察の”OMG”に関する部分は、リリースから5日後の1月7日、「アフター6ジャンクション」内、高橋芳朗氏宛に書いたメールがもとになっている(もちろん番組内で読まれることはなかった)。

さて。今となっては当時の戸惑いや不安を実感をともなったものとして思い起こすのはほぼ不可能に近いのだが、”OMG”を初めて聞いたとき、3つの強烈な違和感を感じた。

1. CHARA声

♪Oh my, oh my God 단 너뿐이야 / Asking all the time about what I should do の後から始まるパートの語尾。同年代以外はあまりピンとこないかもしれないが、これはCHARAの歌い方だ(各自、調べて)。声を張り上げたり、朗々と歌い上げたりはしない「自分の声質を生かした自然な歌い方」がNewJeansのグループコンセプトを表す大事な特徴だったはずだが、この声の出し方は明らかにそこから外れている(注1)。

2. イケてないラップ

1st.EPにラップは入っていなかった。他との差別化で「ラップはやらない」ということにしてるのだと多くのファンは思っていたように思う。それをやってきたのはいいのだが、明らかにイケてない。デビュー以来、一瞬たりともダサい瞬間がないのがNewJeansだったはずなのに、これはいったいどうしたことなのか。「一周回って、逆に今はこれが」というモードではなかったはずだ。

3. ハニが主役

NewJeansにリーダーはいないというのもコンセプトの大事な要素だった。どんな場面でも5人の個性を尊重し、対等に扱うように意識しているように見えていた。それがここに来て、明らかに他の4人よりも重み付けが与えられた役割をハニが演じている。5人のなかでいちばん音楽的素養があるのがハニだということがこのころにはすでに知られ始めていたとは思うが、だからと言って。どういうつもりなのか。

声の聞き分けにまだ自信がなかったため、誰がCHARA声を出していて、誰がラップをしているのか、最初のMVだけでは判断が難しかった。その後のPerformance MVでCHARA声がヘリンとヘイン、ラップはミンジとダニエルだということがわかった。そう、ハニだけがこのどちらにも関わっていない。

つまり、こういうことだ。

CHARAが流行っていた当時、あとから何人も同じ歌い方をするのが出てきた。平井堅のときもそうだったし、わかりやすいところではマライア・キャリーのあの節回しがある。ひとつ受けるとみんなが同じことをする。ヘリンとヘインのあの部分にはそれへの揶揄が込められている。

また、BTSの”Butter”が入り口だった自分の目には、K-POPにラップパートがあるのは「様式として確立されていること」のように見えた。なんの疑いもなく、決まりきった型にただはめ込むだけのそうした制作態度を揶揄するためには、イケてるラップじゃわかりづらいのだ。

ここに”Tell Me”をあのタイミングで披露しなければならなかった理由がある。”OMG”のラップに否定的な評価の声があがることも可能性としてなくはなかった(実際、わりと早い段階で吉幾三とのマッシュアップがTikTokに上がった)。そのあとでいくら上手くやっても、「練習したんだね」ということになってしまう。だから、「やろうと思えばこれぐらいできますよ」ということを”OMG”よりも前に見せておく必要があったのだ。

”Tell Me”のラップは編集が入ってる可能性が高いとは思うが、それでも仕上がりは文句のつけようがない最高にクールな仕上がりになっている。


そこに登場するのが正義の味方だ。

「どうしようかな~」という顔をしたあとにミンジと腕を組んだハニを先頭に、みんなが列車のように一列になって前へ進む。あれを朝鮮半島では「統一列車」と呼んでいることを、近所の朝鮮学校の先生が教えてくれた。朝鮮半島の統一を願って、なにか催し物があったときにはみんなでよくやるそうだ。

そのあとの最後のCHARA声パートはヘリンではなくミンジがやっている。次のヘインはちょっと微妙だが、ミンジの方は間違いなくCHARA声ではなくなっている。ダサいことはやらないハニ=NewJeansのちからによって、みんなが目覚めたということだろう(注2)。

これは、K-POPファンの多くを敵に回す可能性がある、かなり危険な賭けだったはずだ。だが、いまから振り返ってみれば、これこそがまさにミン・ヒジンがNewJeansで表現したかったことの核心だったということがわかる。早い段階から準備していたんだろうとは思っていたが、4.22以降のどこかのタイミングで、デビュー前から用意していたことが明かされていた。

これが4.22にどう繋がるかはもう言わなくてもわかるだろう。DTMソフトにデータを流し込んでボタン一発で出てくるようなありきたりな楽曲。決まりきったテクニックを身に着けさせて型にはめ込んでいく練習生制度。そういう工場でモノを作るような制作態度を、ここまで大掛かりな準備をして強烈に批判したNewJeans=ミン・ヒジンが、まさにそのような過程から生まれてきたILLITの誕生にわずかでも関わっていると世間から思われてしまうことはなんとしても避けなければならなかったのだ。

実際、ILLITを初めて見たとき、「NewJeansの妹分」的な印象を自分は抱いた。いまツイッター検索をしてもそういう感想がいくつも出てくる。楽曲がどうこうではなく、あくまでも「イメージ」がそうだということだ。同じHYBE傘下なのだから、こういうグループが出てくることにミン・ヒジンの了解がないということはありえないだろうと普通に思っていた。いつも見ている「夜のゲーム菩薩」の中村さんも当時同じようなことを言っていたし、問題が起きてからも当時を振り返ってそのような発言をしていたと記憶している。

それが普通の受け止めだったと思うが、そのように思われること、つまりそのようなシステムの一部であると思われることがミン・ヒジンにとっては、多分、死んだほうがマシなぐらいにどうしてもガマンできなかったことだったのだろうと思う。

それはミン・ヒジン個人のプライドだけの問題ではない。
HYBEの社屋にはなんて書いてあるのか。

WE BELIEVE IN MUSIC

「私たちは音楽を信じる」とはどういうことだろう? 信じているものがなんなのかを知らないということは許されないだろう。よく知ることを欲しなければならない。いまは信じているけど10年後はわからないなんてのは信じるうちに入らない。一生をかけて自分が好きな音楽についてよく知り、その音楽全体の価値に少しでも貢献できるような生き方をするというのが「音楽を信じる」ということではないだろうか。


最初の会見でミン・ヒジンが「裏切った」と言ったのは、パン・シヒョクが音楽を裏切ったのだ。




注1

なぜCHARAなのか? 韓国にも似たような事例はいくつもあったと思うが、直接的すぎて使うのは避けたと思われる。では韓国のミン・ヒジンがCHARAを知っていたのか。岩井俊二「スワロウテイル」でその存在を知っていたことはまず間違いないと思われる。また彼女の音楽の聞き方から考えれば、CHARAのあの歌い方が当時のJ-POPシーンにどれぐらいインパクトを与えたかまでを理解していても、なんら不思議はないのではないだろうか。

注2
最後のパートに限らず、CHARA声もラップのイケてなさも、本当に微妙なラインを狙ってきている。自分たちのセンスに合わない要素をわざと取り入れ、それでいてわざとらしく感じさせずに、ダサくなりすぎないようにもするためには、どの程度に抑えるべきかというギリギリのラインを試行錯誤しながら定めていったのだろうと想像する。

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