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「とある恩師」の話

私には恩師と呼ぶべき先生が5人もいる。
本当に恵まれていたと思う。
今回はそんななかで中学時代に美術教師として習った斎藤先生の話を

まず私の出身中学は1学年7クラスある所謂マンモス校だった。
全校生徒は7〜800人
校舎は2つあり、音楽室なんかも2つあった。
空いてる部屋は全部教室にしたのか、1年生のときの私のクラスは1階の1番隅で、その隣は美術室という不思議な配置だった。
そのせいか美術の斎藤先生と接する機会が多かった。

斎藤先生は生粋の芸術家で、鉛筆を持たせれば火の灯る蝋燭を今にも火が揺らぎそうなクオリティで模写し、小刀を持たせれば木の塊を雀にするような先生だった。
料理が好きだから包丁は自分で研ぐし
音楽も好きだからたくさん聴くし、ギター、ベース、ドラム、ピアノは弾ける。
アトリエが欲しいなと思ったらクレーン車を買って自分で建てた。
まずなんで免許持ってんだよという話だが…………

昼休みになると美術準備室で葉巻を咥えながら一円玉でベースを弾いていた。
夏になれば水道にホースをつけて美術室前の路面に水を撒いていた。
「先生こっちにもちょうだい!!」と自分の教室の窓から顔を出すと
「あいよー」と言ってホースの先をキュッとつまんで、窓から顔を出す私に水を直撃させてきた。

そんな先生だったが授業になると勿論ちゃんとやる。
やるのだが、感性が豊かすぎて大体満点がつく、不良の生徒は適当にやるのだが、そんな生徒の作品も「君らしい」と満点をつける(授業態度は0点にするが)。

2番目の姉も斎藤先生に習っていたのだが、こんなことがあった。
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ある日「自画像」を描きましょうという事になった。
絵の具で描こうが鉛筆だけで描こうがとにかく自由。
「自画像」であればそれでいい、と。

皆が各々好きな画材で自分の顔を描く中
姉は「抽象画」を3枚描いて提出した。
友人からは酷評だったらしいが
顔ですらないそれを見た斎藤先生は
「スゴーーーイ‼えぇ!!??自分で描いたの??えぇ〜〜どれも捨てがたいなぁ………これは君の優しい内面がとてもキレイに表現されているし…この絵も(以下略)」
と大絶賛だったらしい。

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私の話ではこんなことがあった。

ある日針金に紙粘土をつけて「手」を作りましょうということになった。
着色もするがそこも自由、ポーズも自由。とにかく自由。
私はピースサインを作った。
自分の手を眺めながらシワや爪と指の境まで針やらヘラを使ってなるべくリアルに作った。
ピースサインを作る生徒は他にもいた。
あとは着色だが、他の生徒は絵の具でペタペタと着色していく中
私は筆を使わなかった。

少しだけ水を足した絵の具を「投げた」
べシャッと「手」に絵の具がつく
色がついてない部分があればまた「投げた」

たしかあの頃は「幸せそうに見えたって中身はグチャグチャかもしれない、それを表現しよう」とやはり闇を抱えていた。
それを見た先生は
「イヤーーー凄い!!(以下略)」
と大絶賛、市のコンクールに出展してくれた。
入賞はしなかったのだけれど。

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またある日はこんなことも

先生が「なんでもいいから学校周辺の風景を書いてきてください」
といった。
学校の横には川が流れているので、ほとんどの生徒はその河川敷から覗く橋や川、路面を描いていた。
対して私は何を描いたかというと、対岸に生えてた1本の木、それだけを描いた。
画用紙いっぱいに木だけを描いた。

持ち時間いっぱいまで木を描き続けた私に斎藤先生は
「おぉ!!なるほどこれが君の『風景』か!!良いねえ」
とこれも褒めてくれた。


エピソードは事欠かない。
ある日は切り絵をすることになった。
切り絵と言ってもハサミで切っていくものではなかった。
白いパネルの上に黒いビニールテープのようなものが貼られているボードがあり、不要な部分をカッターで切り、絵を作り上げていくものだった。
これには題材があった、何の絵かはわからないのだが、木の下で武士が一人祈りを捧げている絵だった。
これを先ほどのパネルに好きなように転写して、各々白黒組み合わせて絵を仕上げるようにとのことだった。

手先をチマチマ動かすのが好きな私は完全模写を目指した。
職人気質なのだ、凝りだしたら止まらなくなる。

一ミリ以下の空白も完全に模写してカッターを手にチマチマと切り出していった。
授業内では時間が足りないので昼休みになれば美術室にいって先生に言ってパネルをだしてもらいチマチマと黒いビニールテープのようなものを切り取っていた。

完成したとき、こればかりは友人からも褒められた。「細けえ………」と

斎藤先生は「すごい良くできてるよ!!表情も完璧だよ!!」
と大絶賛だった。

嬉しいことに、この切り絵と先程の「木の絵」は私が卒業するまで美術室後方の壁に飾ってくれていた。

妹が中学に入学したときにもあったらしいので結構な期間飾ってくれていたようだ。
今どうなってるかはわからない。
さすがに10年前の絵は廃棄されているだろう。

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先生はそんな性格だから、基本的には怒らない人だった。
何をしてもその子らしい表現だと言ってニコニコ眺めていた。

そんな先生が一度だけ怒ったことがある。
クラス内でいじめが発生したときだ。
イジメられてる子を別室へ連れていき、紙と鉛筆を渡した。
「好きな事を書いてみな、絵でも、文でも」
その子は紙に鉛筆をグリグリと押し付けてただグシャグシャと線を描いた。

先生がクラスへその紙を持ってきた。
「自由に描けといったらこんなものを描いた。この線、どういう意味かわかるか?横から見ればわかるが鉛筆の黒鉛が盛り上がってる。強く描かないと出せない線だ。例えばこんな風に」
そう言って新品のチョークを手に取ると
バゴン!!!
と黒板へ叩きつけた。
その後もメリメリと黒板にチョークを押し付ける。
バラバラとチョークの粉が落ちる音がした。

10センチ足らずの線を書き終えたときチョークは跡形もなくなっていた。使い切ったのだ。

「こういう線を出すときはどういう時か分かるか?激情がある時だよな?例えば………『怒り』とか

彼、そして私がこの線を描いた意味………わかるよな?」
そう言って先生はニッと笑った。
目は笑っていなかった。

今まで23年ほど生きてきた中で1番怖かったのは斎藤先生だ。
狂気が潜む怒り方だった。
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さて、つらつらと斎藤先生のエピソードを書いてきたが何故斎藤先生を私が恩師だと思うのかはなんとなく察していただけたかのように思う。

私という個人を、特別な存在でもなんでもなく「私」として見てくれたからだ。
そして私があらゆるものに興味を持ったとき、それを止めることなく「それが気になったならこんなものがあるよ」とむしろ後押ししてくれたからだ。
「続いてもいい、飽きてもいい、君が見る世界は必ず広がる。邪魔するものは何もない」
そう言っていつも私と、先生自身も「面白いもの」を追い求めているのが最高に楽しかった。

またもう一つ理由として私が興味を持つ分野に既に先生は足を踏み入れているような人だったから。というのがある。
何に興味を持っても「あぁそれか、面白いよね〜」と言って一緒に楽しんでくれたのだ。この博識な先生の姿を見て「こんな大人になりたい」と子供ながらに思ったのだ。

今、私はあの頃思い描いたような大人にはなれていない。
知識は足りないし、あの溢れるようなエネルギーも持ち合わせていない。

しかしバンドのメンバーや(2番目の)姉とは「面白い物」が共有できるし、メンバーが「こんなのあるよ」と教えてくれた物を「面白い(または素敵)」と思ってのめり込む感性がある。
それは偏に中学時代の人格形成に斎藤先生という恩師が「良いねえ」と私を殺さずにいてくれたからだ。

斎藤先生が「キレイな絵が好きならミュシャとかいいよ」と言ってくれた事がある。

昨年はミュシャ展に2回足を運んで図録も買った。
未だにミュシャは大好きだ。

斎藤先生は今頃何をしてるのだろう。
体調を崩されて休職してるという情報を最後に話を聞かなくなった。

きっともう会うことはないだろうし、このnoteを目にすることもないだろう。

けれどこれだけ書いておきたい。

斎藤先生、本当にありがとうございました。

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やまだ
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