安倍元首相の「国葬」は「外交」が目的
昨日、岸田総理大臣が今秋に銃撃死した安倍元首相の「国葬」を行うと発表したことに、様々の反応がわきおこっている。
自民党の支持者や保守層は「歴代最長の総理大臣就任期間と功績を考えれば国葬とするのが当然」と言い、反対派は「アベは天皇でも国王でもない。そもそも国葬に法的根拠もない。全国民に追悼を強要するもので、税金を使う理由がない」と主張する。
また、岸田総理は「民主主義が暴力に屈しないことを世界に発信する」などと言っていたが、どれも国葬とする理由として間違った反対賛成だろう。
国葬の目的はたった一つ「外交」である。
民間や特定宗教の主催ではなく政府が金を支出する葬儀とすることで、世界中の首脳や外務大臣クラスの要人が集まりやすくなる。招待をすれば、弔意のために訪れる国は百を下らないだろう。これによって、日本の国際政治の中でのプレゼンスや国力を内外に力強く打ち出すことができる。
それは、今日の一触即発で何が起こるか予断を許さない世界情勢の中で、「日本がリーダーシップをとり続ける」という意味に他ならない。国葬は「自由で開かれたインド太平洋」、日米豪印の「クアッド」、「TPP」など、安倍外交が築き上げた資産、信頼を、日本はこれからも担っていく覚悟を世界中にアッピールする場になるのだ。
こうした考え方を、一部の情緒的な安倍支持派は嫌がるかもしれない。しかし、外交とは情緒的なものではなく、現実的で冷酷なものだ。それを一番よく知っている政治家の一人である安倍元首相は「私の死を外交に利用するな」などと言うわけがない。むしろ、死してなお、歴史的な外交政治家として働けることを喜ぶだろうと思う。
国葬とは外交である。外交とは国益である。すなわち、国益のための国葬なのだから、政府が金を出すのは当たり前なのだ。
故人を悼む私的な葬儀は、いたずらに大規模にすることも支持者を集めることもなく、昭恵夫人と親族だけで静かに執りおこなえは、それでいい。