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カメラを持たずに旅することは可能だろうか

もっと正確に問うと「写真を1枚も撮ることなく」旅をすることは可能だろうか。一眼レフカメラでの撮影に限らない。スマホ、タブレット、すべてだ。

写真家となった今の私の答えは、迷わず「NO」。

ちなみに、カメラマンになる前は、旅先では必ず自分や友達を風景に入れてシャッターを切っていた。「私たちがここに来た証」としての1枚だ。その当時は風景写真を撮る人の気持ちが分からなかった。建物や景色の写真は市販のキレイなポストカードで十分じゃないか、そう思っていた。

ところが本格的に一眼レフカメラを触りだした2014年頃から私の価値観は一変する。これまでとは一転、旅先の景色や現地の人々に焦点をあてて写真を撮るようになった。私にとっての写真は「思い出を記録するもの」から「作品」へと変化していった。

ただ、同時にやっかいな感情も湧いてきた。それは花火大会に出かけたときのこと。“いい場所”を取れたこともあり、嬉しくてひたすらシャッターを切った。せっかくなら肉眼でも見ておこうと顔からカメラを離したとき、大きな一発が打ちあがってシャッターチャンスを逃した。くやしくて、そのあとずっと無心でシャッターを切った。家に帰って写真を見てみると、まだまだ未熟だった私の写真は半分以上がブレていた。一人で拗ねた。カメラが無ければ、このもどかしさなど感じることもなく、綿あめ片手に花火を見て歓声をあげていられたのに、とため息をついた。

それでは、そんな教訓を活かして、「今日は手ぶらで楽しむ日!」と割り切ることはできるだろうか。…無理だろう。日常生活の中でも“これ!”と思った瞬間、無意識にカメラを手にしているのに、旅先の非日常でカメラを向けない選択肢はない。

実はここからが本題だ。文字にするのが辛すぎて本題を迂回し続けるあまり、助走が恐ろしく長くなった。実は今日、5つある写真保管用ハードディスクのうち、1つが “飛んだ”。うんともすんともいわない。その沈黙は重たく、パソコンのキーボードに置いた手のひらからは汗がびしょびしょに垂れた。

過去に、撮影ほやほやのSDカードを静電気で破損しているので、これが二度目だ。ハードディスクは案外もろいと、そして寿命があると、散々見聞きしていたはずだったのに、写真家仲間からもネット上にクラウドとしてアップロードしておくことを勧められたのに……後悔が尽きない。

写真が消えたというシンプルな事実以上に、自分の記憶の一部を欠損したような気になっている。だが冷静に思い返すと、“こんな写真が撮れていた”、“こんな景色があった”と思い出せる。消えたのは、写真だけだ。…否、写真ではない!作品だった!失った代償は大きい!!!

……以降、自分をなだめては否定し続けるという、こころに対する自傷行為の無限ループがとまらない。カメラさえなければ、こんな思いはしなかった。カメラさえ。


もう一度自分に問う。カメラを持たずに旅をすることは、可能だろうか。


カメラが無いなら無いで、二度と訪れないその一瞬をしっかり目に焼き付けるのではなかろうか。いつかは「肉眼レフ」という究極の境地で悟りを開けるかもしれない。ただ、私は、カメラマンだ。写真の収入だけでは全然生活できない被扶養者だろうと、写真家だ。この目が見える限りは写真を撮り続けたい。

痛みを受け入れられるまで、今回もまた時間がかかりそうだ。眠りについたらハードディスクが動き出す夢にうなされるかもしれない。自暴自棄になりかけたが、それでも、撮る。これからも、創り続ける決意に揺らぎはない。だって、私は写真家でありたいから。

2020/03/29 こさいたろ


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写真は呼吸 <こさいたろ>
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