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スキマスイッチと僕の20年


初めてのスキマスイッチと僕

小学6年生の頃、2つ下の弟がコブクロの桜のCDを買ってきた。
音楽に興味はあまりなかったけど、弟に先を越されたことがなんだか悔しかった。
この年の紅白歌合戦にはコブクロが出ていてテレビにかじりつく弟。
スキマスイッチも出ていて、僕はスキマスイッチが好きだということにした。

これが僕とスキマスイッチの出会いである。

スキマスイッチを好きだということにしたけど、紅白で聴いた全力少年しか曲を知らない。
その全力少年も聴く手段がない。当時はまだ携帯も持っていないし、CDを買うにもすぐに買ったら弟に影響された感がバレるじゃないかと思うとできなかった。

そんな、自意識過剰満載の僕が初めてCDを買うことになるのが、それから3ヶ月後くらいのこと。
寝起きでストーブの前を陣取り、うとうとしていると、テレビ画面のおはスタから優しい歌声のメロディーが流れてきて、完全に目が覚めた。
スキマスイッチのボクノートだった。
好きだということが、しっかりと好きに変わった。

CDの発売日なんてよくわかっていなかったから、発売日というわけにはいかなかったけど、地元のデパートに入っているCDショップで無事、ボクノートのCDを手に入れた。
これが小学校を卒業して、中学校に入るまでの春休みのこと。
当時は、小学生の間にCDを買えたという間に合った感がなぜかあり、今思うと、成人式までに童貞を卒業することができた時のそれと重なる。

こんな下品な例えをしてしまう今の僕だが、当時は無邪気で純粋だった。
春休み中は毎日のようにボクノートの初回盤についてたDVDを何度も観た。
PVはもちろん、ボクノート製作期間の特典映像も、シンタくんからクリスマスプレゼントをもらってパソコナーになった大橋くんや、紅白後におみくじを引いて2人とも大吉だったり、歌詞作りに難航したり全国少年のTシャツを着てスタジオにきたり「名古屋のでっかい星になるぞー!」と言った大橋くんなど、今でも鮮明に思い出せるほど人生で一番観た映像なのかも知れない。

さらに、僕がスキマスイッチを好きになったことを知って、伯父さんが持っていた夏雲ノイズをくれたこともあり、スキマスイッチ熱は加速した。

スキマスイッチと中学生の僕

中学生になってからは、お小遣いを貯めて今までのCDを集めるようになり、持たせてもらったガラケーの待ち受けはスキマスイッチの歌詞でメール受信音ももちろんスキマの着メロで容量を埋め尽くし、うたキャスで配信されていた「スキマチャンネル」も欠かさず聴いた。
テレビ番組に出れば、リアルタイムで観て、録画したのをまた観て編集してコレクションにした。
そして、好きになってから初めての新曲「ガラナ」は発売にちゃんと買った。
フラゲの存在も知り、これ以降は前日にちゃんと手に入れて、新曲出た週のオリコンランキングはまるで自分のことのようにハラハラしながらチェックしていた。
スキマスイッチ史上唯一の1位をファンとして味わえたのは良かったと染み染み思う。

大橋くんは、どんな俳優よりもアイドルよりもカッコよくて、髪型や服装はかなり影響され憧れでしかなかった。僕にとってもまさに「スター」だった。

ガラケーから流れるスキマスイッチのアラームで目を覚まし、登下校もウォークマンから流れるスキマスイッチと一緒。
そんなスキマスイッチでいっぱいの毎日に絶望が訪れたのは、中学2年生のこと。

ソロ活動。
反抗期真っ只中で、家族とも友人関係もうまくできていなかった僕にとって、唯一の救いとなっていたスキマスイッチの報告は、僕をどん底に突き落とした。
ガラナの特典映像での喧嘩を間に受けてしまい、このまま解散してしまうんじゃないかと不安でいっぱいになった。
人生から希望を奪われてしまったような気分だった。
スキマスイッチのソロ活動がそうさせたっていうわけでは決してないけど、僕がいちばんダサかった人生の黒歴史は中学2年生で間違いない。ベッタベタに厨二病だった。

心配していたソロ活動は結局ただの思い過ごしで、大橋卓弥はソロでもスターだった。髭を生やしたり、太ったりで、そこの憧れは正直なくなったけど、歌はやっぱり僕の心の支えになってくれた。
「はじまりの歌」は今でも一歩を踏み出す時に聴くし、いまだに母親との関係はよくないけど「ありがとう」を聴いてふと思いを馳せる時間がある。
シンタくんは、裏方としての活動だったから、応援する機会があまりなかったけど、映画「DIVE」のサントラはしっかり買ったし、大橋くんの「SKY」のソロ同士のコラボはなんだかカッコよくて、ファンとして清々しかった。

そんな1年のソロ活動も素晴らしかったけど、「虹のレシピ」でまたスキマスイッチが活動するのがやっぱり嬉しかった。まさに、虹がかかったような気持ちだった。
勝手に絶望していた中学生の僕は、新しいスキマスイッチがみれる喜びと高校生で新しくなる環境に希望を抱き、中学生最後の春休みは、大橋くんの武道館ライブを毎日ようにみて、ソロ活動を噛み締めた。

スキマスイッチと高校生の僕

スキマスイッチが目の前にいる。その事実を知らせてくれたのは、奇しくも1曲目の「フィクション」だったけど、紛れもなくノンフィクションだった。
高校生になった僕は、初めてスキマスイッチのライブに行った。
アルバム「ナユタとフカシギ」のツアー「LAGRANGIAN POINT」が発表され、地元の千葉にもくることがわかり、ファンクラブに入り応募した。
僕と同じくらいスキマスイッチが好きな友達はいなかったけど、1人でライブに行くのは不安で仲の良かった中学校の同級生を誘って行った。
学校終わり、自転車をかっ飛ばして、1時間に2、3本しか走らない電車に乗り込む。
初めてのスキマスイッチは、制服での参加だった。
スキマスイッチを好きな人ってこんなにいるんだと、会場の人数に圧倒され、音楽ライブ自体初めての僕に、スキマスイッチの音楽が全身に響き渡る。中でも、「SL9」は圧巻だった。初ライブを経験してからの数日間は、ライブのことを頭に浮かべると、あの時の臨場感がよみがえり、鳥肌が立ち、胸がゾクゾクした。

高校生の僕はというと、中学生の頃からぼんやりと抱き始めた夢が現実味を帯びる出会いがあった。
スキマスイッチと同じくらい好きだったお笑いの夢を一緒にみれる相方が高校で見つかった。
もちろん、スキマスイッチに影響を受けたから、音楽にも興味はあって、ギターを買ってみたりはしたけど、全然弾けなくて、スキマスイッチみたいなメロディーは思いつかなくて、音楽はスキマスイッチがいれば僕には充分だった。
でもお笑いの方は、音楽よりは少しは才能があったみたいで、画面の向こうの憧れの人たちのようなコメントがたまに言えたりとか、それを笑ってくれる仲間に出会えて、僕の人生は動きだした。
文化祭でネタをしたり、高校生の漫才の大会に出たり、休み時間は大喜利なんかしたり。女子に告白するよりも先にコンビを組む告白をした。
そんな少し変わった青春の背中を押してくれたのも、「全力少年」とか「ゴールデンタイムラバー」とかでスキマスイッチの曲で、なによりジャンルは違えど言葉の面白さを教えてくれたのはスキマスイッチ歌詞だった。

スキマスイッチが好きな友達もできた。音楽の趣味が似てるのにスキマスイッチだけ聴いてないから勧めてCD貸してみたらハマってくれて、2回目のライブ「musium」もその友達と行った。
学校が休みの土曜日だったから、DVDの特典映像で観てたキャッチボールする大橋くんを見たくて早めに会場に行ったりしたけど、見れなくて結局いまだに見れてない。
「時間の止め方」の演出は憧れて、周りが誰も知らないのは承知で、卒業式の打ち上げで行ったカラオケで部屋の照明使って真似したりした。

スキマスイッチと東京の僕

夢のため、東京でもがき続ける僕を勇気づけてくれるのは変わらずスキマスイッチで、ライブは東京公演に行くようになり、上京後、初めて行ったライブ「DOUBLES」の帰りは出待ちをしてみたり、番組観覧にも何度か行ったし、お台場合衆国の「めざましライブ」など関東イベントなども足を運べるようになった。

そんな僕が東京2年目の頃、スキマスイッチはデビュー10周年を迎える。
初めてオーガスタキャンプに行って、一日中スキマスイッチを浴び、さいたまスーパーアリーナでの「POPMAN‘S WORLD」では初めて2日連続でスキマスイッチのライブを味わった。
武道館でのオーケストラとのライブ「Symphonic Sound」、ファンクラブライブ「V.I.P」も初めて行って、パソコンの向こうでしか聴けていなかった「デラックスなテーマソング」を聴いて、スキマスイッチを観るたび、聴くたびに圧倒させられ、自分もあんな風に人に感動を与えたいと思わされる。

しかし、現実はうまくはいかず、僕はコンビを解散することになり、相方は芸人を辞め、高校の同級生の関係性に戻った。誰かと夢を追っていく、難しさを知り、2人で活躍し続けるスキマスイッチの凄さがより身に染みて感じた。

スキマスイッチと直接会った僕

解散してからの僕は、一生をかけてやっていく相方を見つけられず、舞台には立たずバイトばかりでほぼフリーターのからっぽの毎日を過ごしていた。
ゆるやかに流れていく地獄に焦燥感で心を埋め尽くされる日々。
そんな時も僕に希望をくれるのはスキマスイッチ。

上京してから、スキマスイッチのCDは、発売記念で展示などをよくやっている銀座山野楽器でフラゲするようになっていた。
「POPMAN’S ANOTHER WORLD」のCDもアナザージャケットがもらえるということもあり銀座山野楽器で購入した。
そして、そのアナザージャケットをスキマスイッチが手渡ししてくれるイベントがあり、抽選で当選した。
過去には、アルバム発売を記念したイベントやスタッフTシャツの応募にも当たったことがあるからスキマスイッチ運は強いと思っている。
しかし、スキマスイッチに直接会えるのは初めてのことで、喜びはもちろんあるけど、戸惑いもあった。
アナザージャケットを手渡ししてもらえるだけとは言っても、一言二言会話をできる時間はある。女性ファンがほとんどの中、僕は何を伝えるべきか。
ああでもないこうでもないとぐるぐると頭の中で、考えたけど結局いちばん最初に思ったことを伝えるしかなかった。
「僕、芸人やってます。いつかお二人と共演できるように頑張ります」
そう言ってそそくさとその場を後にした。次の人の顔は恥ずかしさとやりづらくさせてしまったかもしれないという申し訳なさで見れなかった。
それでも伝えたかったのは解散して何もできず、全く未来も見えてない自分自身を奮い立たせるための宣言だった。
スキマスイッチは、一瞬驚いて、頑張ってと言ってくれてそれが充分すぎて、このほんの数秒の出来事は、一生の出来事になった。

スキマスイッチと夢を諦めた僕

15周年を迎えたスキマスイッチは横浜アリーナで「Reversible」というライブを2日間行って、「POPMAN‘S WORLD」以来の2日連続スキマスイッチを味わった。
撮影OKという最高のファンサービスで、「Hello Especially」のミニコントや日数変更はファンならたまらないし、アンコールにみんなで照らしたスマホライトの景色、「リアライズ」は圧巻だった。
なによりセットリストがリバーシブルになるという仕掛けに気づいた時は、この人たちはどこまですごいんだと思えた。

そんな15周年ライブは、僕が芸人を辞めてから初めて観たスキマスイッチだった。
スキマスイッチに宣言をして自分に火をつけコンビを組んだ。
しかし、前の同級生とのコンビを超えられるような気持ちにはなれず、夢だったお笑い芸人を25歳で諦めた。
偶然にもスキマスイッチがデビューしたのは25歳の時で、スキマスイッチが夢を掴み始めた歳に僕の夢は終わった。

スキマスイッチとされど愛しき僕の人生

普通に生きる覚悟をしたはずなのに、僕はまともに生きることはできていなかった。
芸人はやり切ったけど、他にやりたいことを見つけられずにいた。
芸人辞めてからもスキマスイッチのことは、もちろん好きでだったけれど、ライブに行けば力をもらえる反面、この人たちのようにはなれなかったと惨めな気持ちになる自分もいた。
そんな中、コロナで世の中は変わり、僕自身も家庭の事情もあったりとボロボロになった。
「Smoothie」のライブには行けなくて、スキマスイッチのライブに行けないのはライブに行き始めてから初めてのことだった。

将来が見えなく、不安で押しつぶされそうになっている頃の僕に届いた曲が
「されど愛しき人生」
生きていて辛い人たちに安易に頑張れとは言わない、スキマスイッチらしい寄り添い方で僕の心にも深く深く刺さる。
救いない曲なのに、少し前向きになれる。

「されど愛しき人生」をライブで聴いたのはコロナ禍に行われたツアー「café au lait」だった。
高校生の時以来に千葉文化会館にスキマスイッチが来るから千葉公演のチケットを取った。
早めに千葉に降り立って、ゆっくりと当時の思いを馳せながら会場へ向かう。
10年ぶりの景色は感慨深かった。
コロナ禍も武道館のライブ「Soundtrack」には行けたけど、ホールでのライブはほんとコロナ直前の「POPMAN’S CARNIVAL」以来で、久しぶりに近くにスキマスイッチがいる。
1曲目の「Over Driver」で思わず、涙がこぼれ落ちて、この時ばかりはマスクをしていて良かったと思えた。
そして、生の「されど愛しき人生」は噛み締めるように聴いた。
どん底の人生にだってスキマスイッチがいる。
芸人を辞めてから、失敗の連続でいた僕に次の一歩をまた踏み出させてくれたのは、やっぱりスキマスイッチだった。

スキマスイッチとこれからの僕

芸人を辞めて5年、芸人はもう無理だけどまたお笑いに携わることにした。
30歳を目前にして、ようやく次の道を見つけることができて日々もがいている。
自分のことでいっぱいいっぱいの毎日で、昔のようにスキマスイッチがテレビに出てももう録画とかまではできてなくて、配信で観るくらい。YouTubeの「このヘンまでやってみよう」も全部の回観れているわけじゃない。
昔の僕が知ったら怒るかも知れないし、地方までライブに行くファンの方からすれば僕はファンとは言えないのかも知れない。
それでもCDはちゃんと買うし、ライブにだって行く。
人とカラオケに行ってスキマスイッチを歌えば、懐かしいとか言われるけど毎日聴いている僕からしたらスキマスイッチの曲で懐かしいとは思わない。
声出して笑うようなことが少なくなった毎日だけど、スキマスイッチに良い出来ことがあれば自然と笑顔になり、心が躍っている自分がいる。
これから先、どんなことがあろうとスキマスイッチのことは間違いなく好きだろうし、スキマスイッチが僕に生きていてよかったと間違いなく思わせてくれる。

そんなスキマスイッチに感謝の気持ちを直接伝えることをもう諦めない。
でも今はまだ言えないからここで、20周年おめでとうございます。

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