見出し画像

自己紹介・続き  少年時代、ホストクラブ、辞めて現在

私のこれまでをざっとお話させてください。
昭和52(1977)年埼玉県生まれです。
池袋から1時間ちょいのベッドタウンです。

小学生の時は小児ゼンソクというのもあり、運動が苦手でおっとりした子供でした。
知的好奇心は旺盛でしたので勉強はしなくてもできたのでいじめられたりとかはなかったです。
当時のベッドタウンの中で一番田舎な部類だったからあまり勉強できる子が少なく希少性があったのだと思います。
都会の小学生なら普通の子でしょう。
女の子も良くしてくれたと思います。
興味に任せ本をどんどん読んでいく。
だから小学校なんかは楽勝だったのですが、
しっかりと勉強する習慣が身に付かなかったのが後々私を苦しめました。

小6のとき友達に誘われたのがたまたま中学受験塾で、なりゆきで中学受験することになりました。
地元の公立があの時代の管理教育だったので逃げた意味合いが強いです。
男子全員丸坊主で運動部に入らないと先生からも人間扱いされない。
喘息児童にとっては恐怖でしかなかったです。

日大の付属の中学に進学しました。
男子校です。
田舎で頭いい子があまりいないという環境から抜け出たせいで、私はただのおっとりした子という図式になってしまいました。
急に男社会の中で不利な立場になってしまった感じがしました。
いじめとまではいきませんが、何か軽んじられてるなと感じる場面が多々あったのです。
しかしちょうど13,4歳で男性ホルモンが爆増する時です。
小児喘息も自然に治り筋肉質にもなり、ナメるんじゃねえという気持ちが強くなっていきました。

高校生になると(スクールカーストなんてあんな気持ち悪いものはなかったですが)もう強者の部類に入っていました。
中高男子校でしたが合コンもよくありましたし、よく同じ電車になる子を気になって声かけて付き合ったりと女性との出会いもありました。
共学をうらやましいと思ったことは全く無いです。
(同窓会だけはうやらましいです)

中学まではトップクラスだったのですが、
高校の途中で勉強がつまづいてきてしまいました。
よくある話ではあると思います。

結局浪人することになり、
これは恥ずかしい話ではあるのですが、
「せっかく浪人したんだから東大行きてえな」と思ってしまいました。
家を出たくなり思いついたのが新聞配達でした。
エレベーター無しの公団・公務員住宅でしたので、ずっと階段登り降りです。
新聞配達をしながら受験勉強です。
お察しの通りグチャグチャになるだけでした。

二浪することになりました。
親に本当申し訳なかったのですが、江戸川区の小岩に「親和寮」という浪人生の寮があり、お願いして入りました。
「東京大空襲の焼け残り」なんて言われてたオンボロ寮です。
この生活が楽しいのなんのって。
日々飲んで語り明かしました。
東大や医学部志望の友達がいっぱいできたのもいい知見になりました。
理系に行きたかったくせに肝心の理数系の勉強がいっこうに進みません。

クリスマスあたりに焦りすぎて発狂しそうになりました。
ふと盲点に気付きました。
「あれ?文系の受験科目で政治経済ってあるよな。
俺って政治とか社会問題に関心あるからもしかしたらできんじゃね?」と。
ためしに早稲田の過去問解いてみたらあとちょいでいけるなという感じでしたので急激な文転をしました。
本番はうまくはいかなく、結局法政大学に進学しました。

大学に入学してすぐ不運がありました。
コンタクトレンズ屋に行った後にまぶたの裏がはれてきてしまいました。
今でもそのコンタクトレンズ屋の近くを通ると軽いトラウマです。
3週間程薄目をあけることしかできない生活です。
大学行ったことある方ならわかると思いますが、4月につまづくとなかなかのハンディです。
なんとか頑張ってサークルにも入ったり授業の登録もしましたが、なんか出落ち感があるのです。
さらに、浪人時代がある意味濃い大学時代のようなものだったので、表には出しませんでしたがサークルの先輩がやたらと幼く見えてしまいました。
200%自分のせいなのですが、「二浪して法政かよ、イヤだな」なんて生産性のない方向に思ってしまっていました。

意識してませんでしたが当時就職氷河期真っ只中というのもあるのでしょう、フリーターの人も多く、俺もそれでいいやと流れていってしまいました。

なんとなく数年がたちバイト情報誌を読んでいるとホストクラブの求人が多数載っていました。
当時は「an」に載せられたのです。
いかにも稼げそうでやってみたくなりました。

ホストを始めた人はだいたい皆そうですが、私も大いにカルチャーショックを受けました。
「an」に載せれていたのはすごい求人効果で、
新人なんて貴重でもなんでもなく、使えないゴミ扱いです。当時はそれが普通でした。
二年くらいして「an」に載せれなくなり、
新人は大事に扱われるようになりました。
誰でも知ってる媒体と夜職媒体は天と地の差があるのです。

まさかこんなの一年くらいで辞めると思いました。
それが20年以上続いてしまいました。
なんだかんだ仕事は楽しかったです。

歴の近い者同士でよくやり合っていたことなのですが、
営業後泥酔してソファーで寝ていると黒マジックで顔に落書きをされる。
コマ劇場(現・TOHOシネマズ)の地下にあったサウナで風呂に入り落とす。
お互い恨みっこ無しで楽しくやってました。
今だと無いだろうな、ゆるい時代だったなと思います。

始めて二年頃に内勤をしていた先輩が退職しました。
「ちょっと手当つけてやるから手伝ってくれ」とオーナーに言われて内勤業務を始めたらドカドカ仕事を回されました。

嫌々始めた内勤業ですが、運良く出世は早かったです。それほどしない内に店長という役職になりました。
さらに分店化もできて結局4店舗統括顧問という形になりました。
各店に社長がいるのですが、彼らはその店に責任を持ちます。
私はグループのオーナーと現場の橋渡しという感じです。
現場にはある程度いるようにしましたが、常駐ではないです。
ただ、どの店舗も全員と言葉はかわして時折キャストを食事に誘うという感じです。
収入も良かったですし、後輩ホスト達と仲良くやっていくのも楽しかったです。

30歳あたりのこととして大きかったことが
ホテルに興味を持ちました。
ある意味究極のサービス業に従事していたため、
一流のサービスってどんなだろうと思ったのです。
日本にある最高級ブランドは8つくらいになるとわかりました。
それぞれ一泊づつしてみました。
それをマネタイズできたかというとそういうわけではないですが、大いに参考になりました。

もう一つアラサーで大きなことというと歴史、
特に日本史に大きく興味を持ちました。
これまで150冊くらいは読んだでしょうか。
大学や大学院などで学んだ方からするとただの無学野郎に見えるでしょうが、大人になってからの独学の良さも感じています。

自由になる時間もあったため、途中でバーを共同経営しました。
ホストのアフターバーです。
大して儲からないなと思い、2年後の更新時に畳みました。

東日本大震災の後くらいからでしょうか。
歌舞伎町はだんだんと雰囲気が変わっていきました。
昔はホストの移籍は御法度感があったのですが、徐々になくなっていきました。
だんだんと大規模にグループ化できたところに人が流れていくようになりました。
私のグループはどんどん合併縮小していき、最後の一店舗も経営が危うくなりました。

結局大手グループに買い取られて私も顧問の立場から現場の一内勤に戻りました。
それから五年程勤め、退職しました。
全盛期と比べると俺堕ちたなぁというのはありましたが、会計・付け回し・総務・アドバイス等を改めてやって、いい知見は得れたなと思います。

風俗店も共同経営していたこともあります。
受付型のホテルヘルスです。
まあまあ大手のグループと知り合いフランチャイズで始めました。
私も週1,2回受付業務をやりました。
フランチャイズ元のベテラン社員の方が親切に教えてくれました。
この仕事は楽しかったですね。
お客様のニーズを聞き出しながら、うま〜くこちらの都合のいいように誘導していく。
後で顧客不満足にならないよう、言葉のマジックをしっかりかけておく。
ホストは長期的なやんわりとした嘘をつくことがあります。
それに対して風俗は瞬発的な嘘をパン!パン!パン!とつくことが多かったです。
風俗は五年程やりました。

私は元々水商売をやるようなタイプの人間ではなかったと思います。
そんな私がたまたま長い年月身を置いてしまいました。
辞めて色々考えることがありました。

私だからこそ解説できるものがあると思います。
お付き合いよろしくお願いいたします。

#自己紹介 #ホストクラブ

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集