コミットメント
おはようございます、こんにちは、こんばんは、tarokenです。
久しぶりの投稿になりました。
今日はコミットメントに関する内容を投下したいと思いました。
本日のレトロスペクティブにて
今日チームでレトロスペクティブをしていた時のことです。チームはスプリントプランニングで掲げたスプリントバックログアイテムを未達で終わりました。一方でスプリントゴールとなるプロダクトバックログアイテムは達成していました。
私はそのスプリントレトロスペクティブの振り返りで「プランニングでコミットしたタスクをなぜすべて達成できなかったのか」(予実がなぜ不一致なのか)ということをチームに問いかけました。
また、加えて「コミットメントしたタスクを完了できないということは、自分たちが届けたい価値をタイミングよく顧客へ届けることが出来ないかもしれない」という言葉もセットで伝えました。
そして「なぜ達成できなかったのか」を掘り返しまくるということをしました。レトロスペクティブを終えて、アジャイルコーチから「改善しながら何を目指すのかを考えて進めるスクラムの良さを失うようなふりかえりになっていないか」という問いかけをもらいました。そこから自問が始まりました。
コミットメントって?
今スクラムガイドを見返してみても、盛大な誤解をしていた気がしてなりません。
今回のスプリントゴールはあくまでプロダクトバックログアイテムの達成だったので、コミットメントを守る≠予実一致を達成する、という理解でもよかったのかもしれません。
いろいろと考えて、調べているうちに一つの記事に到達しました。
こちらの記事でも紹介されているKen Schwaberの記事においても
とあります。うーん、耳が痛い。さらには以下のようにも書かれています。
また、この記事のコメントを見ていくと、やはり大変な思い違いをしていたのではないか、と思っています。コミットメント=今あるものでベストを尽くす、ということだとすると、私がチームへした問いかけはこの記事で語られていることと真逆のことを言っていますし、そもそも予実一致であるならば別にスクラムでやる必要もないよな、と思いました(これもアジャイルコーチに言われました)。
どう考えればよかったのか
チームという視点で見ると、計画したものを達成できたのか、達成できなかったのか、ということについては、その時々、スプリントでやっていきたい文脈によってそれが良かったのか、悪かったのか、変化するものではないかな、と思っています。
例えばとあるスプリントでベロシティが10だったとして、次のスプリントでチャレンジングな目標=15というポイントをチームで設定したとすると、それが結果13だったとしても、チャレンジした結果ですし、一方で前回の10よりも多くのポイントをこなしていることになります。
これを一概にひとくくりで良いか悪いか、ということはたぶん言えなくて、チームによってその時にどのように考えるか、ということが大事なのではないか、ということではないかと思っています。
だから、その時、ベストを尽くした結果をどのようにチームがとらえているのかな、みたいなことを考えていければいいのではないかと思いました。
一方で内省していること
なぜコミットメントを守る=予実一致を達成するという思い込み、勘違いをしてしまったのか、という点にも自問しました。
そして今日とあるメンバーからも「コミットメント=予実一致ということをすごく感じる、予実不一致を許さないような強い意志を感じるケースがある」ということも言われました。
実は自分としてはそんなつもりはなかったんですが、でも複数の人からそう言われるということは、自分にとってかなり強い執着があるんじゃないか?と思いました。少し前から「私は様々なことに対して執着しているのではないか」ということも考えていて、もしかしたらそれが関係しているかもしれない、ということを思いました。
自分の経験から来るコミットメント
私自身は過去、SIerで受託でソフトウェア開発のPMをしていました。その時のコミットメントという文脈は「契約を守る」ということでした。「契約を守る」というのは「契約書に記載されているすべての機能をそろえた状態で品質基準を満たすソフトウェアを納期に遅れないように納品すること」という理解をしていました。
そのためには手段は問わない、残業も休出もするし、何よりプロとして契約を違反することなどありえない。というスタンスでした。つまり契約に沿って立てた計画を遵守する、ということは守られて当然だ、という考え方です。
そして今回、それを引きずったまま、スクラムのコミットメントを考えていたかもしれないと思いました。そのコミットメントをチームにも求めているんじゃないかと考えました。
コミットメントの執着を捨てる
自分の心と向き合って、これまでの成功体験を含めて捨てるということは「はい、すーてた」と簡単にできるようなものではないのではないかと思っています。しかし、自分の心と向き合いながら、少しずつ執着を捨てたり、自分を俯瞰してみて、執着している自分に気付くようなことが出来るように努力してみようと思っています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?