【連載小説】企業のお医者さん 第10話(最終回) #創作大賞2024
10 赤崎社長インタビュー【相客好具】
料亭というほど高級ではないが、居酒屋にはない落ち着きと格式がある「割烹 糸」の個室で、赤崎機工の赤崎社長と福島太郎が向い合せに座っていた。赤崎社長が掲げる『相客好具』という言葉に興味を抱いた福島が社長の息子を通じて会食の席を依頼したのである。
太郎さんですか初めまして。どういうことで俺の話を聞きたいというのか、少し不思議な気持ちはありますが、お話をすることは一向に構いませんよ。もちろん録音しても大丈夫です、そんな機密事項なんかは無いですから(笑)。
ほぅ随分小さな録音機ですね、ICレコーダーというんですか、いやいや驚きました。商売柄、工具とか製造器具はそれなりに新製品を確認したりしていますが、パソコンとかタブレットとかそういうのはトンと駄目ですわ。うちの息子とか若い社員なんかは集まって『あれが良い、これが良い』とか話していることもありますが、俺なんかはすっかり時代遅れですな。
そんな時代遅れの後期高齢者の爺さんの話なんか聞いて面白いんですかねぇ、大したお役にも立てないと思いますよ。どうせ時間を使うなら映画とか落語とか教養になるようなことに時間を使った方が良い気もします。
えぇ俺は落語が好きですな、落語は良いですよ、洒落が利いてオチが着いて、昔の文化とか風俗とかを少し感じることもできますから、聞き終わると胸がスゥっとしますね。
俺のモットーとしている「相客好具」という言葉もね、落語を聞いていて思いついたのですよ。いやね、お客様というのは大切な存在のはずなのに、言葉にするとどうもしっくりこないんですな「接客 上客 酔客 新客 食客 乗客 刺客」 という風に、どこか他人行儀で余所余所しい言葉が多いじゃない。商売なんてものはお客様が居てくれてのものなんですよ。寄席で落語家が噺をする時に、そんな余所余所しい雰囲気じゃ白ける訳だよ。「今日は酔客の方が多いようで」なんて言えないじゃない。噺家と客が呼吸を合わせて寄席を盛り上げる訳だよ。仲睦まじくなきゃ駄目なのさ。俺たちの商売だってそう、うちの社員とお客様が呼吸を合わせて仕事をするから、お互いに相対してこそ良い仕事に繋がる、そういうことを考えたら「相客」という言葉が生まれたということだよ。愛客とか信客でも有りだとは思うけど、やっぱり最後は正面から向き合う気持ちだと思うのさ。だから相対する「相客」ということさ。
好具はもちろん商売モンの「工具」のことさ。俺たちは卸会社さんから工具をお預かりし、お客様に納めることで商売をさせていただいているからね、自分の商いの元を好きでなきゃいけないわけさ。それにそればかりじゃなくてね、工具とか道具の具というのはどういう意味か知っているかい。
カレーやみそ汁に入っている食べ物だって、そりゃ確かにそういう意味もあるけど、そもそも具というのは「備え」なのさ。何かあった時のために役立てるものなんだよ。その役立てる分野により「道具」だったり「工具」だったりするんだね。それで普段使いのものは大丈夫なんだけど、なかなか「イザ」という時のための備えというのは難しいもんさ。下手すりゃ置いておくだけで無駄、無用の長物になるからね。まして「不測の事態」なんていうのは、予想できなかったことだから不測というんだから、備えるのは難しいと思うのさ。
それでもね「心」は備えることができる、目の前にあることだけじゃなく、見えないものも含めて考えておくことはできるとも思うのさ。そういう考え方を好きでいれば、いざという時にも無様に慌てなくていい。だから「好具」なんだ。商品を好きになり備えを好きになる。イザという時に、自分で考えて行動できるようにしておく。そういう意味を込めているのさ。
相客好具というのはこういう気持ちを込めている。これでいいかい。もうそんなメモなんか止めてさ、飯を食おうじゃないか。袖振り合うも多生の縁、こうして同席するのも何かの縁だと思うから、後は飯を食いながらゆっくりと楽しみましょうよ。
そう言うと、赤崎社長はジョッキを口元に運び、喉を動かした。
あぁ随分と話をしたからビールが美味いよ。今は良い時代になったねぇ。こうして毎日のようにビールが飲めるのだから。さぁあんたも飲みな。若い物がチビチビとしみったれた飲み方するもんじゃないよ。こう景気良く行こうぜ。そうそうそれで後は何を聞きたいんだっけ。
『こういう言い方をすると失礼になるのかもしれませんが、赤崎社長は何か志を抱いて会社を興したとのではないらしいと聞いております。敢えて理由をつけるとしたら、責任を果たすためだったと聞きましたので、創業時のお話をお聞きしたいです』
創業ねぇ、一言で言えば「流されて」ということになるのかな。流されて創業する前には普通に会社員をしていたんだけどね、俺が最初の会社に入ったのが昭和40年のこと。今にして振り返れば高度成長期ということで、国全体に勢いがあったねぇ。東京オリンピックは大成功だったし。
マラソンの円谷幸吉選手がね、国立競技場に2位で入ってきたのを街頭テレビでリアルタイムで見ていたわけさ。あんた知っているかい。円谷選手は須賀川市の出身だけど郡山駐屯地にも勤務していたからね、郡山所縁の選手なのさ。それが国立競技場に2位だよ。そりゃぁ驚いたし嬉しかったさ。その前にね女子バレーとか体操、レスリング、柔道とそれぞれメダルを獲得していたよ。それはもう立派なことで誇らしいものさ。けどねオリンピックのために建設した国立競技場では、誰もメダルを取れていなかった。国旗掲揚塔に日の丸が揚がらなかったんだよ、最終日の最終競技まで。
そこに円谷選手さ、格好良かったねぇ、素晴らしかったねぇ、惜しくも銅メダルだったけど立派だったよ。え、オリンピックの話は嫌かい、何だいノリが悪いねぇ。そういう時代でさ、夢の新幹線は東京と大阪を結んだし、オリンピックの次は大阪万博もある。
終戦から20年を前にしてさ、高度経済成長という時代の中、国として「モノづくり日本」という方針で、日本でモノを作り世界を相手に稼ぐという時代、戦後が終わり豊かな時代が来るという夢が見れたんだよ。誰もが夢を見ていたんだ。
けど俺は工業系の高校じゃないから「モノづくり」という分野で働くのは難しい、「モノづくり」を支える会社で働こうと考え、地元で工具を扱う商社に就職したんだ。
大きな工場だと転勤もあるけど、地元企業ならそういう心配もないしね。親の面倒をみなきゃならないから転勤は困ると考えたのさ。それに昭和39年に国が「新産業都市」という制度で郡山と常磐地区を指定したから、これから益々郡山でモノづくりが盛んになると見込んでいたんだ。そうすると当然ながら工具の需要も増える。「神輿に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」じゃないけどね、俺はモノづくりはできないけど、それを支える人間となって飯を食っていこうと考えたのさ。
で次は何を飲む。ビールは美味いけど体を冷やすのが、ちょっとアレだな。和食の店でもあるし日本酒でいいかい。じゃぁ頼んでおくれ。ぬる燗がいいなぁ。旨味が一番出る気がするよ。本当は美味い不味いなんて言わないのが良いんだけどね。贅沢言ったら罰が当たるよ。世の中には三食を食べることができない人もいるんだからね。
そういえば、太郎さんが小学校、中学校の頃は、普通に給食が出てたんだろう。いいなぁ羨ましいよ。俺が小学校低学年の頃は、給食制度がなくて弁当だったんだよ。けどね俺の家は貧乏で弁当が作れない。だから、弁当を持たずに学校に行くわけさ。朝飯だって晩飯だって腹一杯ってわけじゃない。常に腹を空かしているんだけど、昼は特に厳しかったねぇ。
弁当って言っても、今みたいに白米とおかずが揃ったような立派なもんじゃないが、同級生の何人かは何かしら持ってくる、俺は何も無い。それでその場にいるのが辛くて、校庭とかで過ごすんだけど、動くと腹が減るからあんまり動かないようにして、水を飲んで気を紛らわせていたよ。まぁ小学校の途中から給食制度が始まって、みんなと一緒の飯が食える、みんなと一緒に昼が過ごせるのは、ほんと嬉しいことだったよ。
仕事の話もちゃんとするからそう慌てなさんな。まだ宵の口だろう。そんな訳で両親は頑張って仕事をしてくれたし、何とか人並にと高校まで行かせてくれたから感謝しているけど、子どもの頃から貧乏が体に染みついていたから、就職するにあたっては将来ずっと働けることを考えて、小売りのスーパーとか飲食店とかじゃなくて、モノづくりを支える会社にしたということなんだよ。ちゃんと話は繋がっているんだ。急いてはことを仕損じるっていうだろう。
で工具の商社に勤めて10年くらい経つ間にさ、女房と結婚して子どもを二人授かり、慎ましいながらも幸せな生活ってことを実感したね。今も幸せだけど、何て言うんだろうね若くて残された時間もたっぷりあるから、やっぱり夢とか希望ってのかい。それも大きかったんだろうね。ところが夢が一転、悪夢だよ。
人生っていうのは「何が起きるかわからない」っていうけど、勤めていた会社がいきなり倒産だよ。社長と数人の幹部は計画していたのかもしれないけど、俺は何も聞かされていないまま出勤したら会社が無くなっていたのさ。有体に言えば「目の前が真っ暗」になったよ。そりゃそうだろう夢も希望も未来も足元から崩れて、これから女房と子どもとどう暮らしていくか、考えもつかないまま家に戻って女房に話をしたんだ。
「会社が無くなった。これから就職先を探すけど、仕事が見つかるまで我慢してくれ」
細かいことは覚えちゃいないけど、そういう話をしたのさ。そん時女房に「別れてくれ」と言われたら、受け入れて裸一貫で生きることも覚悟したね。そしたら女房に怒鳴られたんだよ。
「バカ!この大バカ。あんた、何しに家に帰ってきたのさ。会社が無くなったって仕事が無くなった訳じゃないだろう。あんた今が顔を出すべきなのは、迷惑をかけてしまう取引先でしょ。仕事を受けたもの発注したもの、その差配をしなきゃ駄目じゃない。新しい仕事を探す前に、ちゃんと今の仕事の始末をしてきなさい」
女性というのは強いねぇ、恐いねぇ。もちろん褒めているんだよ。ちゃんと心の備えが出来ていたんだろうね。まあ咄嗟に出ただけかも知れないけど、女房に叱られて急いで自転車でね、自分が担当していた取引先に事情を説明に行ったんだ。そしたら
「で、納品はいつになる。モノを入れずにうちも潰す気か」
ということを言われて、あらためて自分の仕事を考えたね。うちは工具を売るのが仕事じゃない、モノづくりの会社が動くように下支えをして、必要な物を備えることが仕事なんだ。そのために汗をかかなきゃならないんだとね。取引先だった会社の活動を止めちゃいけない、他の会社を潰しちゃいけない、頭を下げ下げ、汗かき恥かき各社を駆けまわり、当面の必要な工具を何とか準備したんだ。そん時は損得とか支払いのことなんかは吹っ飛んでいたね。
「ちゃんと支払いはしますから、この取引だけは継続させてください」
と頭を下げて回ったんだ、これは家族にも話してないことだけど、最悪の場合俺が死ねば保険金で代金の支払いはできるだろう、皆に迷惑をかけるようなことがあれば、その責任をとろうと覚悟を決めて取引先を回ったよ。
それから家に帰って、女房に自分としての務めはちゃんと果たすことにした、と報告したらさ、女房が正座したまま封筒を俺の前に置いて
「三百万あります、当座必要な資金はここから使ってください」
と言うのさ、聞かなくても判る。マイホーム資金として貯めていた金と、女房のヘソクリだな。そして
「会社が無くなってもいい、マイホームが建たなくてもいい。私は『赤崎豊』と結婚したんだから、貴男が赤崎豊の名を汚さないように、子どもたちに誇れる父で居てください。間違っても、家から居なくなるようなことは考えないでください」
と続けてくれてね、女房に惚れ直したよ。俺の浅い覚悟なんかお見通しだったんだろうね。
本当に女性というのは恐いもんだよ。けどその種銭のおかげもあり、取引先もね資金繰りに配慮してくれたしね、何とか絶望的な危機的状況が納まって、そのまま自営として商売を始めることになっただけなんだよ。
創業したかったという訳じゃないけど、そうして納品してたら次も頼むと言われるし、家の貯金を繰り出した分は女房に返済しなきゃならないしね。会社が倒産したことを知った同業から再就職のお誘いも受けたけど「また倒産したら」と考えると、他人任せにしちゃ駄目じゃないかと思うところもあって、女房と二人で商売することにしたのよ。
あとこういうことは言わない方が良いのかも知れないけど、自分で商売をすると利益も丸っと残るじゃない。これも大きな理由の一つだったね。子どもと女房にひもじい思いはさせたくないし、自分が頑張れば頑張っただけ利益が増えるから、そのまま創業したということになるのさ。
どれ酒を追加して貰えるかい。もちろん二本頼みなよ、お店も何度も呼ばれるより纏めた方が助かるだろうし、日本酒と言うくらいだからねぇ。もうだいたい聞きたい話も済んだんだろう。ゆっくり呑もうじゃないか。
45年続いた秘訣、そんなものがあったら俺が教えて欲しいよ。もし続いた理由があるとすれば、関係してくださる皆さんのおかげです。「感謝、感謝ただ感謝」だけです。
高校を卒業して働き始めた時、俺にはね何にも無かった。学力も無ければコネもない。けど最初の会社で業界のことを一から学んで、社会人としての必要なことを一つ一つ教えて貰えて、取引先とのご縁ができて本当に有難いことだよ。倒産したことは怒ってもいないし恨んでもいないよ。10年間飯を食わせてくれながら、基礎を鍛えてくれたからねぇ。
それから女房に取引先に従業員、それだけじゃない。銀行さん運送屋さんなど異業種の方々、その人たちが居てうちは商いができる。そういうことに感謝しながら一日一日を過ごしていたら、45年経ったというだけのことさ。苦労なんかないよ、生きていく上で思いどおりにならないことがあるのは当たり前のことだから、それを苦労とは感じなかったね。
ただ在るもの起きたことを受け入れて、そこからどうするか。皆さんに御迷惑をおかけしないこと、皆さんに役に立つ方法を考えていたら、苦労だなんて感じる暇が無かったよ。確かにねぇ創業してからもいろんなことがありましたよ。浮き沈みというか沈み沈みというか、高度経済成長の後にはオイルショック、バブル経済の後には失われた20年、リーマンショック、東日本大震災、水害いやいや考えると本当にいろんなことがあったねぇ。あげくにコロナ禍だからね。
だけどどんなことがあったとしても「家族と社員」は目の前にいる訳だから、それを護らなきゃならないから、そのために出来ることはしてきたつもりだよ。平坦な道ではないけれど、一歩一歩曲がったり下がったりしても、また歩み続けて45年ということになるかね。
先刻は「苦労がない」と言ってしまったけど、ちょっと訂正させて貰っていいかい。苦労と捉えれば、確かに苦労の連続だった。けどねぇ有難いことに「家族と社員」が居てくれたからね、先刻は「護る」と言ったけど、護られてきたのは俺の方かも知れないね。家族と社員が日々成長して、俺のことを支え護ってくれたから続けてこられたのかな。
こういう言い方をすると誤解されるかも知れないけど、我社の採用に応募してくる子はハッキリ言って、優秀な名の通った学卒の子は来ないですよ。クラスでもあんまり目立つことが無く、他でも採用されなくてね、知らない中小企業だけど無職よりはいいか、嫌なら辞めればいいかくらいの気持ちで採用試験を受けるんですよね。落ちこぼれといっても良いかもしれません。だけど縁があってうちに来てくれた以上は大事に育てたいと思う訳です。成長して欲しいと思うのです。
学校とか学業では活躍できなかった子たちかもしれないけど、駄目な子も悪い子も居ないんですよ。ちゃんとその子を見て、ちゃんと教えるとできる子ばかりです。最初に話した「相客」ですけどね俺からすると社員も相客と言えます。そうそう相客という言葉なんですけど、茶道、千利休の教えにもね、相客という言葉があるんです。この相客というのは「正客」のお供のような立場の人になるんですが、「相客に心せよ」という考え方でね、正客も相客も同じように互いを尊重して楽しい時間を過ごすように心がけなきゃならない、とういう考えだね。茶道を学んだことはないけど、家族や取引先を大切にするように、社員も大切にする。
この大切にするというのは、褒める時は褒めるし、注意する時は注意すると、まぁ当たり前のことだけど社員に成長して欲しい、仮に会社が無くなったとしても「赤崎さんとこの社員なら信頼できる」と言われるところまで成長して欲しいと願っていますよ。だからある程度、基礎的なことが身についたら、どんどん仕事を預けて自分の判断で取引先と商談できるようにしています。課長や社長に伺いを立てなきゃ仕事ができないなんてことでは駄目なんです。その代わり社会人として人として大事なことは、あいさつから始まり商品の受け渡しの仕方、訪問先での立ち居振る舞い、しっかりと指導しますよ。それができないうちは生意気は言わせませんよ。
うちは商社ですから、お客さんに選ばれないと駄目な訳です。数多ある商社の中からうちを選んでいただく必要がある訳です。そのため大事なのは「人」なんだろうと「あの人」に仕事を頼みたい、「あの人」なら大丈夫だろうと信頼されなければならないんですよ。そのためには、人として成長していかないとなりませんからね。
先刻の話ですけど45年続けけられた秘訣ということではないけれど、山部会計事務所さんね、あそことのご縁が無ければ、45年どころか5年も持たなかったかも知れないねぇ。社員教育の話とか相客の話も山部さんの影響もあるかな。取引先の社長の紹介だから、大きな意味では人の縁ということになるね。
したくて創業したわけじゃないけど、そんなことは言い訳にならないからね、経営者として考えなければならないことが山積みなのです。これには正直参りましたね、学校でも習ってないし、前の会社でも経営は関係なく過ごしてきたから、地図もなく羅針盤もなく、食料も無いような状況で、ポツン女房と二人旅ですよ。
女房も経営なんてことは丸っきりわかりませんから俺に聞いてきますね、そこで見栄を張るわけではないですけど「知らない」とは言えないから「後で説明する」ということにして、山部さんのところに聞きに行きました。山部さんのところは中小企業のあらゆる要望に応えようとしてくれる会計事務所で実に助けていただきました。
なんと太郎さんも山部さんをご存じですか、勉強しているんですな大したもんですよ。
わかって貰えないと思いますが、経営者というのは「孤独」なものです。時に先頭に立ち、時に下からみんなを支えながら会社を動かしていくわけですが、どんな状況でも不安な顔ができないのです。背中を丸めることができないのです。
サラリーマン時代なら会社と家は別ですから、会社で嫌なことがあっても、辛く苦しいことがあっても家に帰ればね、ピタっとスイッチが入るまではいかなくても、心を緩めることができますよね。けどこれが経営者となると、24時間365日、社員の前でも家族の前でも二本の脚でしっかり立って不動の構えを見せなきゃならんのです。ちょっとした不満や愚痴でも、周囲に与える影響が大きいんですよね。思わぬところに波及してしまう恐れがあるのです。
けど山部さんもそういうことを実践している方々ですから、経営者としての辛苦を乗り越えるために、自分ごとのようにサポートしてくれました。
山部さんには助けられました。息子も山部さんの息子さんたちと良いお付き合いをさせていただいているようで、親子二代でお世話になっています。
親子とは言え同じ会社とは言え、俺が教えられることは大したことはないし、時代も違いますしね。うちの会社とかうちの業界という狭い範囲で、これまでの時代のことなら多少、自分が経験したことを伝えられますけど、それが縦軸みたいなものだとすれば、山部さんを通じて異業種・多世代などの情報やご縁をいただくことで横軸を作り、さらに斜めに鎹で補強してくれれば、堅牢な会社経営をしてくれると期待していますよ。
そういう意味で太郎さんは息子と同世代の異業種ということになりますかね、どうか息子と仲良くしてやってください。何か便宜を図ってくれとかということではなく、 一緒に飯を食えるような関係で居てくれたらと思うわけです。会社とね自宅以外があることは有難いことと思うのです。
『大変恐縮ですが、息子さんと仲良くさせていただきたいのは俺の方です。深いお付き合いをしているわけではありませんが、息子さんは非常に立派な立ち居振る舞いをされていますので、学ばせていただくとともに敬意を抱いています。これからも仲良くさせてください』
赤崎社長は微笑ながら頷き、ゆっくりと日本酒を口に運んだ。
(第10話 最終回おわり)
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