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「生と死は等価値」という言葉に支えられている
14歳のときにエヴァンゲリオンを知り、思えばあの作品の言葉をだいぶ人生の拠り所としてきました。特に好きなものが2つあり、ひとつは加持さんの「自分で考え、自分で決めろ」。もうひとつがカヲル君の「生と死は等価値なんだ、僕にとってはね」です。
作中での具体的な言葉の解釈などの話をするとエヴァヲタがキレるのでしませんが、当時「人はなぜ生きるのだろう」という中二病をしっかり発症していた自分にとって、「別に生きるのも死ぬのも同じやで」というパンチラインは心臓にグッサー突き刺さりました。ロンギヌスの槍くらい。
カヲル君の言葉を使徒ではない自分に置き換えて再解釈すると、「なぜ生きるか」という問いはある意味で生への執着でもあり、「生と死は等価値」という状態になればそんなことで悩むこともない。みたいな感じかと思いました。仏教における「空」の思想にも近いかもしれません。
そういう物事の捉え方はよくも悪くも自分の考え方の基盤となっており、その後はつらいことがあるたびに「まあ生と死は等価値だし……」「どうせ万物は空だし……」とマクロな視点で見ることで自分の感情をやり過ごしてきました。そんな私に「逃げちゃダメなんじゃないの?」などと心無いバッシングをする人もおりましたが、そういうのは生に執着している凡夫だ、とATフィールドを張ることで耳を貸さないようにしました。
というと冗談みたいになりますが、実際マジで「生きるとは何か」問題を一生考えているのが僕の人生でした。そういえば中1のときに「笑う犬の生活」で見たテリーとドリーのコントのフレーズ「生きてるってなんだろ、生きてるってなあに」にも衝撃を受けました。あのコントのタイトルもまさに「生きる」だった。そういう表現が好きというかずっと捉われているんだなあと思います。
完全に話が逸れた。カヲル君からテリーとドリーの話になるとは。
ともかく「生と死は等価値」というのを心のお守りにして長い間人生をやってきたわけです。でもそれはあくまで机上の空論というか「死ぬ」ということのイメージがどこか曖昧でおぼろげなものでした。
それが一昨年、本当に死にかける病気をしたことで「死」の輪郭が自分の中ではっきりしたものとなりました。
なんというか、それまでの僕の思う「死」はもっと未知のもので、巨大な、恐るべきものというイメージでした。それがそうでもなかった。もちろん苦しみとか痛みとかはあるんですが、想像を絶するものというよりは、思ったより全然日常と地続きというか、「生」のすぐそばにあるもの、表裏一体であるという感覚がありました。
そこから「生きている」という状態の質感が僕の中で変わった気がします。これまでは頭で思っているだけの思考実験みたいな「生と死は等価値」でしたが、普通に飯食ったりスマホいじったりしてる瞬間瞬間のその裏に死はあるんだよなということが感覚できるようになった。平常心で死と向き合えるようになった。デスノートに触ったらリンゴ食ってる死神が見えるようになったみたいな感じかもしれません。
なんかすごいスピリチュアルなこと言ってるように聞こえるでしょうか。言い方を変えると「生」を特にポジティブなものとも「死」を特にネガティブなものとも思わなくなった、という感じです。って言うとやっぱちょっとネガティブ寄りに受け取られそうな気もするけど、自分的にはそういうフラットさを会得した、とポジティブに考えています。
最近、今までの自分だったらやらなかったようなこと、できなかったようなことを積極的にやってみることにしているんですが、そういう一歩を踏み出すときも「どうせ生と死は等価値だし」というマインドでやっています。根が引っ込み思案な自分にとってそういう意識の変化は必要なことだった。カヲル君のおかげでなんだかんだまだ生きられています。
以下、おまけの余談とマシュマロ返信です。
余談:なんで「生きるとは」みたいなことばっか考えてしまうのか?
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