「サブカル好き故にサブカルが嫌いになる」みたいな現象
最近はおかげさまでいくらか忙しくさせてもろてます。表に出るものも裏方も含めて新しいお仕事なども増えてまこと感謝の極み。大変だけどやるっきゃ騎士(ナイト)と思って生きています。
新しい現場、新しい人間に触れると本当に人間やコミュニティというのは多様で、正解というのは人の数だけあるなあと思います。世界ってナチュラルボーン多様性だなと。
人が集まると「どんなものが好きか?」みたいな話になることがあります。これは雑談でもちゃんとした取材でも同じですが、趣味趣向の部分からその人を形作るもののが見えることがある。人はみんな特別なオンリーワンであると同時に完全なオリジナルという人は存在しないので、こんな漫画が好き、こんな音楽が好き、みたいなことを聞いて「あーそんな感じする~」とか「えー意外~」とか言ってキャッキャすると楽しい傾向があるわけです。
自分もかつては泥酔してへべれけになりながら趣味趣向の話で「これが好きだ」「それのあれのとこいいよな」と絶叫して翌日全部忘れることを幸福としていたわけですが、最近は狂気のしらふ人間になってしまったので冷静に「俺ってほんとは何が一番好きなんだろう」と考えることがあります。そんときにもしかしてサブカルが一番好きなのかもなと思うようになりました。そもそも「俺ってほんとは何が一番好きなんだろう」って問いがもうだいぶ痛いサブカル感ありますね。
と言ってもサブカルってなんなのか、正直よくわかっていません。なぜならサブカルをあんまり深く知らないから。これが本記事の主題である「サブカル野郎は天邪鬼故にサブカルに惹かれ、天邪鬼故にサブカルを嫌う」という現象です。サブカルハリネズミのジレンマ。
思えば子どものころから売れてるものにあんまり惹かれない天邪鬼な性分を抱えており、みんなが盛り上がっていると引いてしまうところがあり、コロコロではなくボンボン派でした。10代のころはそのへんの自己認識が甘いので「俺は人とは違う感性を持っている!」みたいな驕りにもつながり、王道を回避していった結果ヴィレッジヴァンガードにたどり着いて「ついに俺だけの楽園を見つけた……!」みたいな気分になったりしました。
が、しばらくするとそういうやつがヴィレヴァンに行きつくなどというのはむちゃくちゃ「サブカルの王道」であることを知り、自分がスーパー有象無象、凡夫オブチキンであることに耐え切れず、反転して「サブカルに夢中になるとか痛いっしょ」みたいな冷笑的な態度をとることで己を守ろうとします。私です。
まあヴィレヴァンというのは比喩なので別になんでもいいんですけど、いわゆる「王道を外してちょっとひとひねりした(風の)やつ」にもそのうちあざとさとか外連味を感じて、当初のように「やばっ、すごっ」とビクンビクンできなくなります。そしていくらか前から「王道をちょい外しするのが王道」という風潮にもなり、「逆に王道をやるのが新鮮」とかにもなり、私はすっかり私自身を見失い、ますます酒に狂い、膵臓を失い、気が付けば全てを失ってここに立ち尽くしていました。絶対に許さない。私を殺したのは浅野いにおです。
(最近はやっぱ浅野いにお好きかもなーになりつつある)
だがしかし。最近思うのは5、6歳のころの自分は何かへのカウンターとかではなく純粋にボンボンのほうを面白そうと思って手に取っていて、実際そういうのが面白かったわけで、わりとDNAor三つ子の魂レベルでサブカル気質なのかなーということです。
正確に言うと現代の「サブカル」という言葉が纏う意味合いとももうちょっと違う、商業に魂を売りすぎていない、インディーだったりプリミティブだったりの狭く深い層に届ける精神性を持ったもの。そういうのが好きなんだなーと思った。
そんでそれは「酒飲んで半径5メートルの人たちと笑い合えるのが一番優しくて幸せな世界」という自分の価値観と一致する。おそらく自分の正体は今も昔もそのあたりにある。自分を見失いがちな狂気のしらふ人間としては、そういう自分の趣味趣向に自覚的でありたいなと思いました。
以下、こぼれ話。最近気に入った作品など(最近読んだだけで最近の作品ではない)。
大山海『奈良へ』
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