「木綿のハンカチーフ」において、男性と女性どちらが振られた方だと思いますか?

ご質問の答えに関しては、形而上的にはフラレたのは女性という解釈しかないと思います。

ただここで面白いのは、それにも関わらずこの質問が出てくるところです。

というわけで、少し長くなりますが、なぜこの「木綿のハンカチーフ、フラれたのはどっちだ問題」が勃発したかについて、①次元上昇問題、②圧倒的敗者感問題、そして③木綿のハンカチーフの呪詛問題、という3つの観点から考察していきたいと思います。

①次元上昇問題

この歌は
「恋人よ ぼくは旅立つ
 東へと向かう列車で」

という歌詞で始まります。

これはわかりやすい立身出世を目指した物語です。
この歌詞を松本隆がリリースしたのは1975年。

矢沢永吉が『成り上がり』(構成は糸井重里さん)で、日本中の若人の心を鷲掴みしたのが1978年ですから、まさに永ちゃんが成り上がっていったのがこの歌詞の書かれた時期、高度経済成長が続き、田舎で農業に従事するという選択肢しかないと思っていた若者に野心と希望を芽生えさせた時代でした。

そしてその野心の舞台となるのは「東」、そう東京です。

この歌のベースにあるのは「立身出世を目指して東京に行った青年」という設定です。これはとても大切なので押さえておきましょう。

つぎに「次元上昇」という概念について簡単に説明したいと思います。

多くの人は、なぜだか今のままの自分で成功者になれると勘違いしてしまいます。しかし成功者になるには成功者のマインドセットを獲得しなければいけません。マインドセット、つまり思考−感情−行動のパターンです。

この思考−感情−行動のパターンは、類は友を呼ぶ傾向があります。
裏を返せば、自分を次元上昇させたいのなら、心地よい今の環境(つまりコンフォートゾーン)を抜け出し、より高い次元の思考−感情−行動のパターンを持つ集団に飛び込んでいかなければなりません。

まあ、あまり細かく説明しているとかったるいので、ざっくりそんなところです。

それを踏まえた上で「木綿」の歌詞を読み解いていくと、

まず1番で「男」は、古い思考−感情−行動のパターンのままで田舎を出ます。この時点では「男」は「女」のことを愛しているし、自分が変わることを想定していません。立身出世への野望があるだけです。「女」はそれに対して「変わるな」とだけ釘をさしています。この「女」の態度は、変化への暗示であるとともに、終始ある種のホメオスタシス(コーチング用語としては変化を引き留めようとする力)として働いています。

ところが2番になると、「男」は少し都会の水に馴染んできています。その結果何をしようとすると、都会的なものを「女」に強要して、女にも変化を求めます。そこには思考−感情−行動のパターンが異なってくれば、二人の恋愛関係が機能しなくなるという男の本能的な理解が潜んでいます。それに対して「女」は頑なに元にいる場所に固執し、ホメオスタシスとして働いています。

3番になると「男」の中では思考−感情−行動のパターン、すなわち価値観が変わってきています。その結果、今の自分のいる世界を是だとする価値判断をし、かつて自分がいた世界に対して「まだスッピンかよ」といったような否定的な言動を取るようになります。ここで「女」の態度は少し変化します。「男」の変化が決定的になったことを悟り、留める努力を放棄してただ「からだに気をつけてね」と情を見せます。

そして問題の4番では、「男」は自分の変化の完了を宣言します。思考−感情−行動のパターンが違う「女」とは一緒にいられないことを明確にします。
実は3番からわかる通り、「女」も関係の破綻には気づいています。にも関わらず自ら「涙拭く木綿のハンカチーフください」とフラレ側のポジションを取りにいっています。

ここもなかなか味わい深いのですが、その詳説は後段に譲るとして、まずは物語全体の構造理解するのに、「次元上昇」という補助線を引くといいというお話です。

では、ここからいよいよ深堀りをしていきたいと思います。

②圧倒的敗者感問題

さて前章で、形而上的には「女」がフラれたという構造になっている(「女」がそのポジションを取りに行った)という話をしました。

しかし不思議なことに、この物語の読後感としては圧倒的に「男」に敗者感を感じます。

そもそもの質問「フラレたのはどっち問題」が勃発しているのも、この圧倒的敗者感ゆえです。

ここでポイントとなるのが「立身出世を目指して東京に行った青年」という、この物語の骨格です。

「男」にとって「東京」と「立身出世(成功)」は同義として物語は始まっています。しかし実際には東京の水に馴染んだものの、決して立身出世(成功)はしていないのです。

つまり「男」は単に東京にかぶれただけで、初志である立身出世はしていないのです。言葉を換えれば、「男」は次元シフトはしたけど、次元上昇はしていなかったということです。

それにも関わらず次元上昇したと勘違いしてブイブイ言わせている滑稽さが、男に敗者感をまとわせるのです。

そしてもちろん「女」はそんなことはすべてお見通しです。
見通した上でフラれポジションを取りにいっています。
だからフラれた惨めな女というよりも、むしろ勝者感さえ漂ってくるのです。

ではこれは浅はかな「男」(もしくは男全体というものが浅はか)と
聡明な「女」の物語なのでしょうか?

実はそんなに単純な話でもありません。
最後にこの物語の語り部である「女」について深堀りしてみましょう。

③木綿のハンカチーフの呪詛問題

この歌のパンチラインは

「涙拭く木綿のハンカチーフください」

この「木綿のハンカチーフ」の象徴するものはいうまでもなく、純粋で純朴なものです。

この場合の「木綿」の対義となる概念は「プラスティック」です。繊維的にいえばポリエステルということになるのかも知れませんが、プラスティックはダスティン・ホフマンの映画「卒業」の序盤のシーンの会話にも潜んでいるように「インチキ」を象徴するものです。

つまり東京にいってプラスチック(=インチキ)に染まった「男」に対する対比として、自分を木綿というポジションに置いています。

わざと「フラれポジション」に自分をおいて、自分を純粋・純朴な存在にしています。そしてさして悲しくもないのに涙を流しますからね、とアピールしているのです。

このことは何を意味するのでしょうか?

これを考えるときに大切になるのは「木綿」のもう一つの対義概念です。それが「絹」です。
絹はポリエステルと違って本物であり、純粋であり、そして高級でもあります。

言うなれば木綿からポリエステルへの変質は次元シフトあるいは次元下降といえるかも知れませんが、木綿から絹へは次元上昇なのです。

女は自らが木綿に留まる限りにおいては、そこが安心で安全な空間があることを知っています。

だからわざわざプラスチックの世界に行こうなんてさらさら考えていません。

でも、同時に自分が絹の世界に行けるとは思っていないのです。
そこに挑戦しようとさえ思わないのです。

これが1970何代半ば、昭和50年代の日本の地方に置かれた女性の現状です。この「女」ほど、聡明な女性でもそうだったんです。

実際に行けたかどうかはわかりません。中にはチャレンジして自分の人生を切り拓いていった女性もいるでしょう。

でも多くの女性にとっては決していけるものではない、というのがリアリティーだったんです。

男であったら思慮の浅い薄っぺらな輩でも挑戦できるのに、女性というだけで挑戦できない。

このことに対して自分の自尊感情とどう折り合いをつければいいのでしょうか?

そこで出てくるのが木綿です。人間には認知的整合という特質があります。自分のいる世界を「これでいいんだ」と無意識に肯定しようとする特質です。

あえて「フラれポジション」を取ることによって、自分を純粋で無垢な木綿と位置づけ、木綿以外の世界観を否定するホメオスタシスの役割を果たすことによって辛うじて正気を保っているのです。

その構造に気づかない呑気な多くの男たちは勝手に「女」を自分よりも弱い健気な存在だと思い込み、心の底で「女」と深い共感でつながっている女性たちから「男って(バカで単純で)かわいんだから」と微笑ましく見られていたのです。

というわけで、恐るべし、松本隆です。



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