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コーヒーブレイクの存在意義

↓ 会社の日報で書き散らかした記事を1つ引っ張ってきました。

今朝は無事にコーヒーを入れることができました。
どうやら同期の中には私の日報を見てマイタンブラーをわざわざ用意してきてくれた人もいたそうで、飲み物係としては非常に報われます。

たりんの日報(4/12)

会社内で軽めのお茶汲み要員みたいのしてます。
淹れたければ淹れればいいし、忙しいからやってらんないならやらんくても良い。けど、珈琲やらお茶の在庫足りなくなったら発注するという仕事です。

コーヒーといえば、数年前にある友人の勧めで「コーヒー&シガレッツ」という映画を観たことがあります。駅近くのシャッター街の先にある、しがない大学生たちが集まるシェアハウスのプロジェクターに写し出された白黒の映像です。他の住民たちは既に眠りにつき、誘ってきた友人さえもいびきをかいている中、一人ポツンとコーヒーとシガレッツを携えながら鑑賞した記憶があります。

たりんの日報(4/12)

提出日に、昨年の飲み物係の先輩と当該作品の話題が出たんですよね。

「メディアゼミ」と、名前を聞いただけでは何を研究しているのかは範囲が広すぎて分からないゼミで仲良くなった彼とは、「この世の全てはメディア(媒介物)として見なすことができる」という思想下で意見が合致した過去があります。故にコーヒー&シガレッツも例に漏れず、手元にあったコーヒーというシニフィアンには「知的である、知識人」というシニフィエが表れているだとか、シガレッツには「健康に悪影響」のコードが付与されているだとか、とにかく全ての物体は何かのメッセージを伝える箱(=マクルーハン的"メディア")なんだよ!と楽しく談笑する流れで、当該映画の鑑賞会をしようとなったのです。

たりんの日報(4/12)

視聴することになった経緯は改竄しました(ごめん)
この方が話の流れ分かりやすかったんですよね。

感想としては、コーヒーやシガレッツの物質側の視点に立たされた感覚がしました。映画内では、二つのオブジェクトに馳せるそれぞれの登場人物たちの思いが垣間見えたり見えなかったりするけれど、結局それらはそこに存在しているだけで、人物らのニュートラルな仲介者でしかないというか、そんな感じです。今日K井さんに付いて行ってスタバに行った時も、コーヒー(ソイラテ)はただそこにいてくれたな、なんて。
何やらビッグネームな俳優たちがバンバン登場しまくっていたらしいので、わかる人にはわかる面白さみたいな評価もある映画だそうですが、私は上記のような取り止めのない感想しか持つことができませんでした。

たりんの日報(4/12)

ちなみにこの感想を当人に伝えた時、すげぇ適当な反応された記憶があります。自分からすすめといて、サイテー。

何はともあれ(だいぶすっ飛びますが)自分の中では今でも「この世の全てはメディアである」という確信があります。それは物質に限らず、人の言葉や立ち振る舞いさえも含めてです。大学の時の後輩の1人は、ノンバーバルなコミュニケーションの中にこそ人格性や真実性が表れると思うと言っていました。みんな何かしらの意味づけを経て生活を送っていて、コミュニケーションを交わしていて、例えば「話をしてるのにこっちと目を合わせないということは、自分に興味はないのかな」とか「消しゴム拾ってくれたってことは俺のこと好きなの?」と解釈を進めていくわけです。

たりんの日報(4/12)

まぁ、こんな感じですね。

会社にはこの日報を使って、仕事に活きるようなインプット・アウトプットの場にする人もいれば、出会い系でマルチに引っかかった話をエッセイ風に綴っている人もいます。

とっても楽しいですよ?

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