アガペーとエロスと愛と性教育
日本の性教育に「ない」ものは、「愛」なんだと思うんです。それは世界共通の悩みの種なのかもしれません。
名古屋の産婦人科医の加奈子先生が、「ハーバード流最先端性教育」の記事をシェアされていました。ハーバード流には3か条というのがあって
・今まで主流と思われていた「禁欲」教育はもう古い
子供は親から「性」について教わりたいと思っていたことが判明
一番大切なことは「性」だけでなく「恋愛」の本質を教えること
だそうですが、親から「性」を教わるのは、よっぽど親が愛について、性について、意識的に学んで成熟しないと難しいかもしれないけど、その分親も真剣に取り組むためのいい機会とはなるのかもしれません。親の世代だって、ちゃんとした性教育なんか受けていないはずですからね。
そして、核家族化した現代は「となりのお姉ちゃん(またはお兄ちゃん)力」おばちゃんやおじちゃんでもいいんですが、要するに他力の援助が、投げ込まれた「性と愛への理解」という小石の波紋を美しく外側へと広げるための、助けになると思います。
ちょうど思春期の頃というのは、誰でも覚えがあるかと思いますが、「親と先生の言うことだけは聞かない」ホルモンが発動している時期です。だから学校に丸投げするよりも、他力を使うのがずっと効果的じゃないかと思います。(この無気力時代の今では、そんな表立った反抗すらも珍しいんでしょうか)
親だって、自分たちのプロセスがあるのだから、深めるための時間も必要だし、全部自分たちで背負わなくたっていいんじゃないかと、私は思います。性教育は、親と子の間のことでもありますが、社会全体の問題です。
女神の集い・Trilogyでは、その辺もとても大事に思っていて、子連れ参加を支援しています。お母さんがセクシャルエネルギーをプラクティスしている、まさにその場現で「自然とセクシャルエネルギーに触れる」機会を作ってみようという目的です。
子供達とお母さんは、同じ場にいるわけじゃないけど、自然と伝わるものがあると思うからです。西洋ではたいていの人は「愛について」を、哲学としても、聖書からも学ぶ機会があります。
私はクリスチャンではないので、OSHOの言葉から雷に打たれたような気づきをもらっているわけですが、東洋のグルが話す「愛について」の言葉は、とても自然に私に染み込んできて、今の私があります。OSHOがタオの愛について語っています。
川はヒマラヤの最高峰で、氷河の中で生まれ、そしてどんどんと低く低く低く流れていき、それが世界で最もくぼんだ、最も低い場所である海にたどり着くまで止まらない。その海が川の我が家となる。
愛もまた虚ろさ、空っぽさへ向かって動いていく。エゴイスティックな人たちが愛せず、そして愛されることもできないのはそのためだ。
彼らは多くを望む。彼らは愛を求める。彼らは愛を得るために、必要なことは何から何までやってのける。
ところが彼らは失敗者のままだ。彼らは完全に失敗する。というのも 肝心なことはどうやって愛を得るかということではないからだ。
ポイントはいかにして、虚ろになるかなのだ。愛というものは、直接的に求められるべきではない。直接的には追い求められない。
ただ非直接的にのみ、あなたはそれに対して『有効』になる。あなたはただ虚ろになるだけでいい。するとどうなるだろう。
千と一つの流れがあなたの中に向かって流れ始める。見ず知らずの人たちが
あなたに恋をするに違いない。人間ばかりではない。星たちも、石たちも、
空も、海も、樹々も、鳥たちもどこであれあなたが行くところ、突如として
愛があなたに向かって、流れ始めることだろう。それは愛が水のようなものであるからだ。
で、その西洋の愛についてはどうなんでしょう?ギリシャ語では愛は主に4種類に分類されています。
(性)エロス:本能的な愛。肉体的な愛、主に男女関係の愛、見返りを求める愛。
(生)フィリア:友情愛。友達、同郷、同邦のような連帯感の愛。
(生)ストルゲ:親子愛。親子関係の愛、師弟関係の愛。
(聖)アガペー:神様の愛。無条件の愛、見返りを求めない愛。
というわけで、愛に明確な居場所を与えて分類しているわけです。
残念ながら日本ではそういう文化はありません。なのにセックスや愛の概念だけが西洋化されちゃった、それが混乱のもとなんでしょうか?
日本人は物事をはっきりさせるのを嫌う傾向があります。
「なんでもありだよね」
「私とあなたは違うから、同じ意見じゃなくていいよね」
当然そうですが、聖書のように理解の土台となる共通の言語を持っていない私たちにとって「愛とは何か」という探求は、すべてがうやむやの霧の中です。
そして「愛すること」と「性欲・エロス」は別の次元の出来事なんだってことをはっきりさせておかないといけません。
生命の本源、エロスの愛からアガペーの愛へと昇華させていくことは、太陽に照らされて温まった海から蒸気として昇華した水が、冷えて雨となって海へと降り注いでいくさまを思い起こさせます。
セックスレスのカップルが、「私たちはフィリアの愛だわ」とか「ストルゲの愛だわ」ということがあるかもしれませんが、愛はアガペーまで持ち上がって初めて、海ーエロスーへと還っていく循環の輪ができあがるのです。
途中で止まっちゃったら自然の摂理から外れてしまいます。
エロスはこの循環の中に必ずあって、アガペーの愛へと立ち上がらなければ
友達的愛、家族的な愛の中のセックスレスにほのぼのと立ち止まるか、どろどろとした淀んだ水の中で、複雑なドラマが繰り広げられるというわけです。
昔は西洋でも、東洋でも、顔も知らない人との結婚なんていうことがあって、「それはひどい!」と、現代人の私たちは思いますが、昔の人たちは、エロスとフィリアを別のものだと捉えていて、エロスから始まった愛は、刹那的で関係を長く続けるのには、あまりうまくいかないと信じていたんです。
セックスについて語るときに、
「うふん、気持ちいいいぃぃ、私たち溶けあっちゃう〜♡それが最高なのよ〜」それもいいけど、それだけではちょっと違う感じがします。
エロスをアガペーへと昇華させて(愛を育てる)、霊性(スピリチュアリティー)の高みへと昇華させていくためには、情熱(ハートの火)と、知性(第3チャクラの太陽)の暖かなエネルギーに照らされることが必要です。
だって私たち、人間として生まれてきてますもんね。
性・Sexから端を発した命、魂は、生・Lifeを経て、聖・Spiritualityへと向かい、性・Sexへと還る循環の輪のなかにあるのが自然です。
その螺旋運動は、宇宙の流れに沿った魂の自然な運動の形だと、私は思います。生・Lifeが昇っていくために、聖なる女神、アガペーの側からのサポートが、太陽の恵みのように暖かく私たちを照らしてくれます。
そして、人として、親としての成熟とは、子供達は私たち大人と同じように
愛の体験をしに、愛を学びにやってきたのだと理解して、信頼することで、
自分の所有物のように大事に守って奥の戸棚に隠しておくことではないのだと思います。親も子も、どちらの立場からも、そんな理解が成熟した一人の人として、目指すべき姿なのかなぁと思うのです。
2017年6月29日ブログより
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