【天重2次創作】戦う相手は誰
「最後はもう、自分との戦いで…」
ディスプレイに映るのは、ボクシングの世界戦。終盤はダウンの奪い合いとなり、素人ながらにも死闘に見えた。勝者となり、腰にベルトを巻いたその選手は、息も絶え絶えながら、涙交じりの笑顔でそうインタビュアーに語った。
「自分との戦い?ボクシングなのに、自分と戦ってたのかしら、この人」
衛生観念はからっきしなくせに、食事をする所作には品がある。今日の晩ごはんは、ハヤシライスだ。
スプーンの根本にすら、ほとんどソースがついていない。
こんなに綺麗にハヤシライスを食べる人間も、そうはいないだろう。俺は、翠の食べる姿が好きだった。
ハヤシライスを食べ終えた翠は突然、冒頭の言葉を紡ぎ始めた。
「『立ち上がらなければ楽になれる…』みたいな弱気な自分とか?」
あまり真面目に考えたこともない話題だけに、回答に窮した。ただ、やるつもりだった宿題を先延ばしにして居眠りをしたときなどは、自分の怠惰な心に負けたと思うこともあった。
「わからないわ。だって、戦うべき相手が眼の前にいるのよ。自分と戦ってる場合じゃなくないかしら」
最初は定型句のコメントに対する当て擦りかと思ったが、翠にとっては、純粋に不思議なことのようだ。
なんせ、天才だ。自分ならばどんなことだって出来て当たり前だ、という域に達した人間なのだ。向き合うべき課題に一度たりとも負けを許さなかったのが、三澄翠だ。
さらに言うなら、負けないどころか、それこそ、影さえ踏ませなかったのだろう。俺を含む凡俗たちのように、弱い自分自身と対峙した機会すらなかったのかもしれない。
「俺も、スポーツとか真面目にやってたわけじゃないからよくわからないけど。」
「そういえば、少なくとも翠の部屋に初めて掃除に行ったときは、本気で試合に臨むくらいの気持ちだったぞ。」
決して大袈裟ではなかった。人の衣類を汚物呼ばわりしたのは、さすがにあれが最初で最後だ。靴下を履いていても足裏が痒くなる家なんて、人生で初めてだった。
「で、万里部くんも、自分との戦いに勝ったということかしら。挫けそうになる自分に、鞭を打っていたのね」
「自分と戦ってる場合じゃなかったよ!自分総動員の総力戦だよ!ラスボス級の超強敵だったよ!」
思わず大きな声が出た。当時の感覚がよみがえり、怖気のあまり足先が冷えてきたからだ。
「ほらやっぱり。参考にならないわね」
「言うにコト欠いてそれですか、翠さんや。」
最近の翠は、岩盤を削る代わりに、小説を読んだり、ドラマや映画を観たりすることが増えた。「HCLプロジェクト」の一環だ。
天才少女にとっては、これらの分野はほぼ未知の領域だったらしい。
その天才少女がいま一番関心を持っているのは、どうやらスポーツのようだ。現地観戦をしてみたり、友達とちょっとしたスポーツに興じてみたり、なんてことになったら、確かに「HCL」っぽい。
特に贔屓があるわけでないようで、純粋に人類のフィジカル面における能力の高みや限界というものに興味があるらしい。そして、自分には何がどの程度できるのかについても。
いわば、「HCLプロジェクト」の傍らの、研究の一環でもあるというべきだろうか。
「スポーツとは究極のところ、自分と戦うことなのかしら。なんだか興味深くなってきたわ」
「自分との戦い、したいのか。」
ふと、天啓のようなものが閃いた気がした。俺が漫画のキャラならば、目がキュピンと光っていただろう。
「そうね、そんなものがあるならね」
「ならばまず、明日は6時に起きろ。まだまだ眠っていたいという自分との戦いだ。」
「無理よ」
即答だった。そして、なぜか神妙な面持ちでわずかに頭を垂れた。
「わたしにはスポーツは向いていないのね…」
そもそも起床はスポーツじゃないし、もっと向いていないことは山ほどあるし…現実を突きつけてやりたい気持ちはやまやまだったが、真剣に考え込んでいる翠を見ていたら、黙るしかなかった。
「…でも、やってみるわ」
「無理すんな。今日も今日とて、仕事も研究もいっぱいだろ。」
よく見たら、翠の耳の先が赤い。どうしたのだろう。
「6時になったら、鉱の人差し指を私の手のひらに挟んで」
【この指はなに】
【人差し指。】
【なんでまた寝てんだよ。】
【眠いから】
忘れるはずのない出来事だった。ドキリとした。息を飲む音が自分にも聞こえた。
「…いいよ。けど、また、寝ちゃうだろ。」
「ううん、上がるから。心拍数。わたしも」
「でも、意外に落ち着くんだろ?」
「と同時に、意外に元気にもなる」
「起きたら筑前煮が食べたい」
「俺、何時起きだよ…」
「決まりね。じゃあわたし、ちょっとすることあるから」
「一方的だな。」
翠は、言うや否や、パソコンを広げ、鬼気迫る勢いでキーボードを叩き続けた。変な日本語だが、眠るまでは起きていて、起きている限りはこの動作を続けるのだろう。
それでこそ三澄翠であると誇らしく感じると同時に、物理的な距離からは想像もつかないほどの隔絶を覚え、どこか寂しく感じるときは、正直、ある。
「翠!翠!!」
大声で彼女の名を呼んだ。研究という深海に潜り込んだ翠を、引っ張り上げるように。
「なに。うるさいわね。聞こえてるわ…」
唇が、重なって、離れる。
「…潔癖症のくせに、わたしの唇は平気なのね」
「そりゃあね。」
「最初は、そんな自分と戦ったのかしら?」
「戦う相手なんて、自分じゃないよな。」
「なにそれ」
自分と戦う必要なんてない。自分に対しては、素直でさえあればいい。
翠との日々は、やっぱり楽しい。終わらなかった世界では、こんな日々が、今日も明日もあさっても、ずっと続いてゆくのだ。(おわり)