信じる心を、どこまでも
疲れたな、と木下由奈(きのした ゆな)は旅路でそう感じた。
これまで実に長い道筋をたどって来たのだ。もう何年になるか自分でも見当がつかないくらい。
白い雲が大空を隠す下、はるかに見える建物の群、その前を覆い尽くす石、砂、枯草。
砂利を踏みしめる一人の少女の他、誰も場所を同じくする者はいない。
「ようやくここまで来たのね……」
東から西へと、その足は土を踏み続け、両手は腰に差す短剣をなでつづける毎日だった。
由奈は日々の苦労を誰にも伝える由は持たなかった。いたかもしれないが、分かれて十年以上も経った今日は、もう。
「何か座れるところでもあれば、ちょっと休みたいな」
かばんの中には食料や手帳などがぎゅうぎゅうに詰めてあり、決して身軽ではない。短剣はよく練成された鋼鉄でできていることもあって、由奈の速度をますます遅くしていた。
——無論、戦いになった時にはその重さなどなんのそのだけれど。
「あれは……岩?」
左に目を向けると数十歩先にちょうど座り心地よさそうな岩があった。由奈はこの身軽になりたい一心で岩へと身をひるがえし、数秒の後その上に腰かける。
「ふーっ」
大きく息をつくと、少女はかばんの中から革製の水筒を取りだし、一杯で飲み干す。この一連の行動で、急速に由奈の体から力が抜けて行った。と同時に、昔の記憶やら感情やらが肉体感覚にとって代わる。
実際、由奈にとってこの数年のできごとはもう自分の人生を決定してしまったようなものだ。
国々を覆った戦乱で故郷も、家族も失った時、ある男が少女を拾った。
男は少女に生きるすべを教えた。武器の扱い方。獣の狩り方。人間の急所。捕まった時の脱出方法……。
少女は、死にたくなかった。痛みを受けたくない、ただそれだけの理由で少女は男の鍛練に耐え、男からあらゆる知識を吸収した。
もしあの人がいてくれなければ、私の骨が野原で朽ち果て、犬のえさにでもなっていたはずだ——戦慄と安堵感。
気づくと、由奈は胸にさがった宝石をいじっていた。角ばった六角形で、緑色の光を放ち、生きているかのように見える宝石。
あの男と出会う以前から少女に残っている、唯一の遺産。確か、母親からもらった気がする。母親の記憶については、もう忘れているのだが。
そうであっても、この宝石は彼女にとって人生の長さ、壮絶さを証明してくれる遺物だった。もしこれがなければ彼女は自分の記憶の数々に意義を見出すことなどできなかったろう。この宝石は、これまで経験してきた感覚に意味を与えてくれると由奈は信じて疑わなかった。
さて、と由奈ははるかにたたずむ街を見つめる。
あの街は佐藤(さとう)伯爵の領地だ。何でも最近家を継いだばかりの若者だというが。旅人にとっての関心は、ここを越えてさらに遠くへ向かうこと。
その瞬間、肩を叩かれて由奈はどきりとした。
反射的に剣に手を伸ばして——敵意がそこにないことに気づく。
「よう、会ったな」
緊張しながら上を向くと、そこに壮年を越えて初老を至りそうな一人の男が立っていた。
顔には黒い切り傷の跡。腰に提げた太いつるぎ。使い古されたとおぼしい赤茶けた鎧。
その時点で、由奈はすぐ立ち上がり、それからあっけにとられた顔になる。
「生きてたんですか——あなた」
「おい、俺をなめるんじゃねえぞ。何しろ戦場のど真ん中を渡って生きてきたんだからな」
男は口を大きく曲げ、豪快に笑う。
「でも……まさか、こんな所でお会いするとは」
「なあ、俺様を見てどんな気分だ?」
関本寛(せきもと ひろし)——由奈の記憶が正しければ、そういう名——は臆面なく由奈の隣に座った。
「複雑……ですね」
由奈は驚きにかまけて行動力を失わぬよう、鍛えられてはいた。それでも師の姿を再び見るとなると、いまだ心の整理ができていない。
「複雑、か?」
由奈は師を信じていた。
どのように師が反応しようと、それは由奈にとってあるべき展開だと。
「ええ。あなたのような方がこういう風に弟子の前に気軽に現れるとは、思いもよりませんでしたから。いや、殺しに来たのではないかとさえ一瞬疑ったのですよ」
関本の顔色には曇り雲一つもない。
「お前は誠実だ。まさかそんなことを言って怒らせようという魂胆じゃないだろうな?」
「まさか、師匠の様子からありえませんよ」
由奈は師を信じていた。
今この方法で、師に対応することは間違っていないと。
「無論今は戦乱の世だ。次に会う時には敵同士、などということも珍しくない」
関本は口調をややけげんにして尋ねる。
「なのにお前は俺を信じて刃を向けようともせん。実に甘い奴だ」
「師匠がそんな方ではないと、私は数年の生活で知っているのですよ」
由奈は疑うことなく。どこか穏やかで、しかし真面目な表情で。
「一つ屋根の下で過ごした関係ではありませんか。おたがいに隠しとおす物なんてなかったじゃないですか」
苦笑する関本。
「やれやれ、どうしようもないおなごだ……。じゃあ、俺がお前と別れた時の情景を答えて見せろよ」
由奈の顔がそこで少しずつ冴えて行った。
単に冷たい顔ではなく、そこに若干の優しさを添えて。
「『教えるべきことは教えた』と言って、剣を振り回して私を追い払いましたよね。その時ただ恐ろしくて、逃げることしかできなかった」
それさえも、必要なことだった。人生の上で通らなければならない道だった。そう信じている由奈にとっては、この記憶は何ら負の感情を呼び起こすものではない。
感心した様子さえ、関本に起こる。
「……ああ、その通りだ。今だったらどうする?」
「もちろん、礼をして立ち去っていたでしょうね。あの時はただ、一人ぼっちになるのが嫌でしたから」
関本はすっかり落ち着いた雰囲気、冷めた顔で由奈を視る。
「なるほどお前は自分一人で生きていきたくなかったわけだ」
師匠の刺すような視線に、由奈は逆に懐かしさを感じる。
まさにそれこそ、師匠がこの時代を生き抜く力を持った人物であると断言できる要素なのであるから。
「でも、今はもう大丈夫です。私はこの身一つだけで生きて行けるくらいに成長しましたから」
「それが、お前の自信か?」
心の奥底を極めたがるように問う関本。
「自信というよりは、自負ですね」
完全には確信できないらしく首をかしげる由奈。
「ふん……まあいい。随分と背が高くなったものだ」
「もうあれから五年も経ちましたものね。それに比べると師匠はますます立派ではありませんか」
枯れた笑いを投げる師匠。
「やれやれ……すっかりに生意気になりくさって」
言い終わる前に立ち上がって、数歩街へと近づく。
「元からこういう性格ですからね、変えることはできませんよ」
由奈は今度も臆することのない返答。
実際、関本はあまり弟子の態度にはうるさくない気質だった。
「ところで……なぜこの道を?」
「あたり前だろ、今まで仕えていた領主様から暇を出されたのさ」
やはりこの世渡りは厳しいものなのだ。
「どこの領主も貧乏だからな。家来をいつまでも養って行くわけにはいかない」
由奈も立ち上がって、彼の跡についていこうとした。
「お前はまだ、誰にも仕えてはいないのか?」
「ええ。結局この放浪の身ですね」
「放浪の身、か」
関本は急に投げやりな口調で吐き捨てる。
この瞬間、その隣に並ぶ由奈。
「師匠も——今から佐藤家の領地に?」
師と観るその街は、ずっと近く、大きい風に見えた。
「そうだ。だが、まずやっておかなければ」
関本はわずかな時間の隙をついて、由奈の腕をにぎる。
「ならないことが——」
弟子の体を、すぐ地面に倒した。
衝撃が伝わり、たちまち心臓かに痛みが生じる。
自分の感情の正体を知る前に、頭を強く殴られ、由奈の意識が遠のいた。これは、ごくありふれたことだったじゃないか——。
佐藤敦(あつし)は彼を待っていた。
薄暗闇の中かすかにわかる顔の輪郭はどこか流麗で、男盛りにまだ至らない年頃だが、表情は野心に満ちている。
「佐藤どの、参りました」
扉を叩く音、そして男の声。
「おお関本、御苦労だった」
佐藤は不敵な笑みを浮かべ、これに応える。
以前から私が求めていたものが、ついに手に入る時。
有頂天でつい我を忘れそうになるが、貴族としての矜持から感情が表出するのをなんとか制御。
「入れ。例の物は手に入ったか?」
扉が開くと、壮年のごつごつした肌の傭兵が入室。先ほど、由奈を手に欠けた人。
「あのエメラルドの宝石……やはりあの娘が持っておりました」
うやうやしい様子で宝石を手渡すと、佐藤は満足した様子で、彼に。
「私が絵で見せたやつと違わなかったろう? 伊豆王国が滅びて以来失われたあの石だと、確信していたのだ」
関本は感心こそしないが、人間の欲深さに一種の感銘を受けた。
人間は生きることを欲する存在だ。まして今の時代、他者を驚かせるほどの図太さがなければ到底やってはいけない。
「領主様は実に物好きな性格であらせられる。よくあの宝石の絵を長く保存なさっていたことだ」
「父から受け継いだのだよ。この強欲という属性をね」
皮肉交じりの関本の言葉にも、佐藤は浮かれていた。自分のような人間でなくては、なぜ情け容赦ないこの世界を生き抜けようか?
「我が佐藤家は領地も狭く、土地も豊かではない」
すでに暗くなりつつある部屋に光をもたらすのは、片隅におかれた小さなランプ。ささやかにオレンジ色の火をともしている。
そのあかりに佐藤も関本も照らされていた。
「我が家は代々は他の貴族とやっていくためあまたの財宝を集めてきた。時にそれを送ったりあるいはちらつかせたりしながらな。そんな世渡りと来たら実に不安定だった」
気乗りしないようすで相づちをうつ関本。
「私と同じですな。私もいつどこで死ぬか分かりませんから」
報酬がほしい、とぶしつけに願えないのが不満。他人の演技ぶった語り口は好きではないのだが、この男と来たらどうも自慢が好きみたい。
「伝説ではこの宝石を持つものはいつか自分が慕っている人間にもう一度出会える、と伝えられている」
「だとすれば皮肉なものですな。まさか自分の師匠に裏切られる、とは」
関本は独り言っぽくつぶやく。とはいえ悔恨らしいものはいささかも。
佐藤の笑みが残酷さを帯びてきた。
「最悪の再会、というべきか」
佐藤は冗談を言った。誰かの苦しみなど我関せずの冗談。
「だが、君も相当なものだよ。何しろ自分の弟子相手に不義を働いて恥ともしないのだからね」
佐藤もまた、すっかり荒れ果ててしまった人々の心に退き目を覚えていた。自分自身それに毒されていると承知しながら。
雇い主の批判ともとれるなじりを耳にして、だが関本はさして傷つかない。
関本は基本的にそんな指摘で心が傷つく人間ではなかった。
そもそも、裏切りと不信が横行するこの世界で信頼が何の役に立つ?
親子や兄弟でさえ憎悪を持って殺しあうのに?
「それがどうかなさいましたか?」
何事でもない風に流す関本。
まさにこれが理想的な人材だ。つくずくこの男に利便性を見る佐藤。
「いや、ただのつぶやきだ。忘れてくれたまえ」
関本はその時、妙な気分になった。
おかしい。やましい気持ちがどこかに潜んでいる。
自分はいつから裏切りをものともしない性格になったのだろう。一体、いつから?
由奈は、まず身軽さ、そして束縛を知る。
「ここは……?」
寒気があたりを覆っている。たいまつがいくつか壁に灯されている以外は真っ暗な部屋。
そして何本もの縄が自分の身にはかかっている。
つまり、これは。
「くっ……!!」
すぐ体を前後に揺らして、そこからぬけようとする。だが想像以上に、束縛は厳しい。
「目覚めたか」
軽蔑を前面に出した声とともに、人影が一つここへ。
「まさか苦楽を共にした人間にこんな薄情な仕打ちをされるとは誰も思うまいな……ははっ!!」
若い男の声。姿はほとんど影だが、身なりはきちんとして、背は高く、たくましさを含む声。
「佐藤伯爵……!」
由奈のかすれる悲鳴。
「いや、こんな目に遭わせて気の毒とは思うさ。何しろ君をここに連れて行ったのはまさかの師匠なんだからな」
「関本さまが!?」
全身を衝撃がつたう。
「恨みは私にではなく関本にぶつけたまえよ」
「そんな、師匠が——」
由奈が真相を究明しようとしてさらなる質問を投げる前に、さらに一人がここにやってきた。
「今起きたんだな」
「……師匠」
間違いない、関本が今この空間に。
「だまされた方が悪いことは承知しているはずだ」
温かみのない、一切が打算とでも言いたげな口調。
「なぜ俺と出会った時にさっさと手を下さなかった? 次遇った時は敵同士と言ったはずだろう」
「縄を……解いてください!」
理性で無駄と分かっていても、感情が冷静な判断を狂わせる。
「だめだ。お前があの宝石を伯爵どのに渡さない限りは」
「いや、渡しても命乞いはかなわぬよ」
佐藤は感情の高ぶりに乗せられる人間ではない。
たとえどれだけ心がしたり顔を作っていても、裏地には常に一種の冷たさがある。
「君は伊豆王国の姫君だ。今ここで逃せば各国に大義名分の道具として使われるだろう」
緊張がますます鋭くなり、いっそう由奈への束縛を強める。
心拍数が徐々に増えていく。
「いつか君に王国を再建させてやる、という名目でな。それでは私にとってはただただ不利でしかない」
「は、離して! もう私にはあの日々は二度とやってこない!」
佐藤の塩からい一言に、辛い気分はこれ以上深くならない。
「私の過去をあと少しでも掘り起こそうとするなら、あなたたちを——」
「もう、いいさ。君の処遇は後で決めさせてもらう。まだ全てが終わったわけでもないしな」
「よろしいのですか、こんな手に負えない姿で」
関本は由奈から顔を背け、憮然とした表情。
「構わん」
佐藤が冷たく返すと、二人はそのまま闇の向こうへ歩いていく。
「ちょっと……待ってよ!」
佐藤は少女の身にさほどの関心を払っていなかった。宝石が手に入れば何の心配もない。
由奈は何度も歯を食いしばって縛りを解こうとした。静寂の中に響くかすかなあえぎ。
冷静になれ、脱出できる方法を見つけ出さねば。
同時に、『あの方』のことについて考えてもいた。
これが自分に対する報いなのか。あれほど信じあった仲だというのに。
由奈の中で恨みが燃え盛る。すっかり不自由な体で暴れることも罷めていた。
ああ……そもそも自分が放浪という宿命を課せられたのも、元は国を失ったことが起点なのだ。佐藤の言う通り、かつて由奈はここから遥か、伊豆の国で王女として生を受けたのだ。
母親は王妃だった。そう、高貴な身分。もし泰平の時代であればこんな牢獄でもがいているはずの運命ではない。
しかし、戦乱が全てを傾けた。戦争で都が攻められ、父王は死に、母も由奈も捕虜として敵国に連れ去られた。
宝石は、確か都が落ちる直前に母から託されたもの。たとえどんなに離れた地にさまよったとしても、いつか必ず生きて出会えるように。
けれど、もうあれから十年近くが経った。宝石の利益は一向に顕れてくれない。
だがその代わり、重大な事件は起こった。関本と呼ぶ男との出会いだ。
ある貴族の邸宅、下女の地位でこき使われていたのを、関本は買ったのだ。関本は金と引き換えに自分の戦力がほしかった。時として捨駒に使うための。
由奈は命が惜しかった。どんな目に遭っても命ばかりは失いたくなかった。生き延びるために彼女は厳しい鍛練にたえた。
まだ記憶に新しい。あの男の姿なら、どんなことでも鮮明に思い出せる。
「お前は、俺を殺せるか? 殺されようとした時に、殺せるか?」
容赦のない質問を浴びせる関本。あまりにも過酷な正論。
「できんだろう。お前はそういう娘だ。いまだ宮廷で家来にかしずかれていた日々が抜けきらずにいるのだな。それくらいに、お前には信頼という言葉が根づいている。だが、それほど信用に値しない言葉もない!」
……できないのなら、師匠の意思にそむくことになるのだな。愧じる由奈。そんな自分は金輪際——
「くうっ!」 思いきり両腕を張り、手で縄の結び目を探る。
こんな目にぼやくのも不合理だ、と解く方法に苦心する時、ある場所で縄がゆるくなっているのを発見。
そこか。由奈の顔が一瞬喜びにゆがむ。曲がりなりにも引っ張ったり、爪を押しこんだりしている内、ついにそれが切れた。
やった、と叫ぶのをどうにか抑えつつ、より自由を得た両手で縄を引っ張り、あるいはちぎったりして徐々にその束縛を取り壊していった。
由奈がとうとう縄から出たのは鶏がもうすぐ鳴く決心に至った頃のことである。
ほとんど闇一色の世界の中を歩き回り、いくばくも経たず壁にのめりこんだ板づくりの扉を開けた。
縄をゆるめてやった人間に感謝すべきか。まさか関本ではないだろうな。いずれにしても、この極限の状況でも切り抜ける策を想いつけたのは関本のおかげかもしれない、と場違いの安心感を抱いてみたり。
それくらいに、由奈は関本に深い敬意をいだいていたのだ。怒りを越えて、あまりある。
「私は別に決まり悪い気分ではないぞ。それは動かせない事実だろう?」
宝石を片手で愛撫しながら、佐藤は冷たい視線を傭兵に見せる。
「ああ。別に怒りもこみあげん」
すでに関本の口調は武骨。報酬のことがもう頭の中心に座りこんでいるようだ。
「あの娘が油断した様子を示したことが意外でならないようだな」
「当然だ。こっちは隙を見たら殺すつもりでいたのだから」
佐藤は由奈に対する興味など塵もない。それに比べ、関本の痛快なくらいの無情に、興味が引かれてならない。
「ため息が出るな。数年もともに過ごした弟子を惜しげもなく殺すのか」
「一度分かれてしまえば敵同士」
「それはそうだが……」
けれども、佐藤も実は鼻白んでいた。
なるほど数年深い関係を結んでいた貴族や王に反旗を翻すのが世の常であるとはいえ、それをこれほど個人的な紐帯のある輩に対してしかけるものか。逆に言えば、佐藤もまた関本に比べればややまともであったわけだが。
「一体、いつから……?」
口まで昇り出る、奥底の疑問。
「随分昔だな」
関本は、自分をそこまで残忍とは思っていない。むしろ悪いのは他の人間であり、自分はその悪さに対抗するため毒をまとっているに過ぎない。
「俺もかつては甘さある人間だった」
関本の家族は代々商売で財をなしており、その街では一際豪華な邸宅に住んでいた。
ある日、戦場から命からがら逃げ出した落ち武者が家の前に現れ、かくまってくれるよう願った。名を訊くと、決して氏素性の知れない馬の骨ではない。そこで関本家は彼を厚遇し、その故郷に送り届ける手はずも。
しかしその男は夜、突如として一家を皆殺しにした。魔法の素養があったらしく、追跡を受けることなく逃げおおせたのである。
たった一人生き残ったのが末っ子の寛。
もう何も残ってはいなかったのだ。家財全てが奪われた。
家の復興が無駄な以上、食って行くのはせいぜい兵士稼業でしかない。
汚れ仕事で生計を立てることに抵抗はなかった。商売でさえ、人の心に傷をつけかねないというのに?
「どんな人間であれこっちが先に裏切らなくちゃならないと分かったのさ」
「悲惨だな。君も本来なら血の匂いのするなりわいについてなどいないはずだが」
まるでひとごとのように。
「信頼できる人間ほど実は信頼できんのだよ。裏切る恐れがある。ならばこちらから裏切れ。そうすればあとあと害をこうむらずに済む」
「何を考えてるかわからん家来よりも恐ろしいよ、あんたは」 次第に佐藤の語り方にも、素の口調がさらけ出されつつ。
関本はそこで一回を息をついた。それからますます気炎を上げ、したり顔。
「だがそれより心地いいのは……人間に嫌な思いをさせられるということだ。あの裏切り者に味わった屈辱を他の奴にも。所詮この世は嫌な思いをさせた者勝ち。世の不条理をそれで思い知らせるのだ」
語る関本の目は、どこを。
佐藤の顔色はますます退いている。
「まさか、私を裏切りはするまいな」
関本の顔と来たら、笑っている。
「当然でしょう、雇い主に逆らって忠誠を破るのはただの卑怯者ですから」
武器だ。武器を奪いかえさねばならない。
由奈にとって二振りの短剣は自分の半身。あれがなければ、腕や脚が欠けているのと同じ。
中央に浮かぶ湖を横目、月の光が照らす柱廊を走り、あの佐藤伯爵の居場所に迫る。
「待て、そこの小娘」
反対側の廊下から、一人の若者の声がする。
近づくにつれ、明らかになるその姿。鎖帷子、手には槍。
先端をこちらに向け、突こうとする算段。
由奈は槍が及ぶ範囲に達した時、巧みに身をよじらせ、そのまま数歩足を踏みしめた瞬間高く脚をかかげる。
その先は、動揺の走る兵士の顔面。
鼻面にうまく命中させると、由奈は素早く男から槍を奪い、さらに向こうに進軍しようと。ところがその矢先、火球が柱に衝突して黒い煙を噴き上げる。
「魔術師……!」
「出でよ炎よ! 球のごと!」
黒いローブ、身を包む魔術師。口をすべらせこちらへ手の杖。
再び火球が出現して突進、由奈へ。
なんとかよけた瞬間、壁がくだけていびつな穴を形作る。
「そんな簡単な呪文?」
槍をゆらして、わざとそそのかす。
魔術師は返答の代わりにつむじ風を送りこんだ。由奈は音と波のゆらぎからその動きを知り、身を穴に向けて転がす。かまいたちを受けたせいか、槍が途中で折れた。
部屋はどうやら屋敷の中庭につながっているらしい。テーブルや椅子があたりに散乱している。由奈にはしかし、後ろを眺める暇はない。
空中に低く浮き上がる魔術師が、杖を構えつつ池を越えてこちらに。
由奈が折れた槍の先っぽを投げつけ、胸に命中させた。
安定を失って崩れ、水中に沈む。
あの宝石を取り返す。その一心しか由奈にはない。部屋を通り抜けて、中庭へと移る。
すでに反対側の壁際に、幾人もの兵士がいた。杖やら剣やらたずさえて、一人の少女をねめすえ。
あの二振りの短剣があれば切り抜けられたかもしれないが、分が悪すぎる。
多勢に無勢。
「不毛な争いはよせ!」
突然叫び声があがって兵士たちの後ろの扉が開いた。
佐藤と関本が由奈の前に現れ、近づき始め、数歩手前で止まる。
「君が望んでいるのはこれだろう?」
佐藤はこれ見よがしに二振りの短剣の鞘を両手でにぎっている。
首に宝石をかけたまま。
「……宝石を返して」
「だめだ。力で奪い返すのなら話は別だが」
佐藤の口調には嘲弄がみちみちている。
「関本、お前はどうする」
「どうするも何も……」 由奈の顔を苦々しい目で関本。
「お前は敗れ去った。この俺に敗れ、そして佐藤伯爵殿に敗れた。もう降参するしか他はない」
「まだあなたたちは勝ってもいない。決めつけないで」
なんと浅ましい奴だ、と関本はなげかざるをえない。そんな人間に由奈を育てた覚えはない。これほどに我の強い人間は見たことがなかった。自分なら、宝石に対する誇りなど捨ててさっさと逃げているはずなのに。
今ここにいる小娘はまだ闘う術を放棄してはいないのだ。
「愚かな……自分の置かれた状況が理解できないのか?」
佐藤のため息。
「もはや君は敗北したのだ。今さら抵抗? 笑わせるな。よくも私の部下と家に傷をつけてくれたな。ただではすまされんぞ。それでも懲りないのか」
次第に表情が紅潮していく間に関本が割って入った。
「……なら一つ条件がある」
佐藤にとってははなはだ予想外のことだったらしく、口を閉じて茫然。
関本は裏のありそうな態度で、一つの要件を出した。
「俺と闘って勝ってみるがいい。勝てば宝石も返すし、ここから逃がしてやる」
「小娘相手に妥協するのか、私の許可も得ずに?」
我に返ってからは、怒りを含んだ口で関本に向かう。
「伯爵、あんたにも悪い話じゃあるまい。もしここでこの小娘が敗れれば万事こっちのいいように動くし、俺が死んだとしても生きて脱出できるかどうか疑問だろう」
「ふ……(上機嫌な表情、そして由奈にほえて)ただですむと意うな!」
佐藤はやや下手な動きで短剣を投げつけた。
これをうまく両手で受け取る由奈。腰に速く差し、抜き取る。
「ではいくぞ」
おくびにも、しかし動揺。
なぜ自分は奴に優しさをかけた? 普通なら、決してありえない愚行。
そうであれ、関本はなぞの高揚感。恐らく、弟子と手合わせをするのは久々のことだから。
剣を腰から抜いて片手にかかげると、口で静かに呪文を唱える。
詠唱が終わると、剣が青白い光に包まれてその刃が広く、大きく変わった。
まさに、人間一人が持てるかどうか疑問のほどに。
人間以外には、ただ雲で見え隠れする月だけが静かにその様子を見守る。
佐藤にとっては茶番以外の何物でも。しかし、二人にとっては全く違った。
由奈は宝石を持っていたいだけだった。関本を傷つけたくなどない。あの宝石こそは——自分が生きていた道程を証してくれるもの、自分が出会ってきた人間の記憶を思い出させてくれる道具。
関本と会ったのは、この宝石の恩寵以外に誰のおかげ。たとえその出会いが快いものでなかったとしても、記憶を越えた現実を持って来てくれたことに感じている以上大してことなどではない。
一方で関本は、由奈に二つの態度で接していた。あるいは軽蔑であり、あるいは懐古でもある。
由奈に憎しみの感情がほとんど見られないことには驚きを禁じ得ない。この乱世では人の心の清らかさなどたかがしれたもの。にも関わらず、この真摯な瞳はあの頃と何一つ変わりない。
いや、もしかしたらその強さはますます深まってはいないか。となると、逆に恐ろしくはなる。
だが同時に、関本は由奈と出会えたことに一種の楽しみを覚えてもいたのである。一体、どれほど腕は上がったのか。どれほどこちらを——楽しませてくれるのか。
はっとして、そんな自分にふがいなさ。彼女に対してこれほど情けをかけているとは。もうあの頃の自分とは卒業したはずだ。信用がなければこんなうきうきした気分、いだけるわけがない。つまり、それほどまでに自分の心にはあの忌まわしい言葉がこびりついている。あまりにも甘い奴!
関本の激情がはじけ、体を前に突き飛ばす。
由奈は短剣を交差させて走りかかる。
かつてこの武器は関本から譲り受けた代物。随分古い時代に造られたとはいうが。
三つの刃が、鋭い音、衝突する。由奈は重力を物ともせず、側面に身をそらす。
由奈は短い時間でかがみ、下から斬撃を食らわせる。関本の剣も、大きさから想像できない軽さで動き、由奈の動きをはばむ。
横殴りに動く剣、背中をそらし、あるいは跳躍で避けつつ由奈は関本の隙を探ろうとする。
一瞬、関本の胴に肉薄した瞬間短剣を肩に刺そうとするが、鎖帷子で邪魔される。だが関本も間合いが広すぎるせいで、つかも刃もなかなかその姿をとらえずに。
機敏に短剣をあやつって関本の刺突をずらし、受け流す。その合間にも私情がその脳裏に入りこむ。
かつての訓練も似たようなものだった。木で作った剣を握らされ、その上で襲いかかれと指図される。
攻撃が失敗し、かえって追いこまれる時、
「詰めがあまい!」 厳しい叱咤。
そのたびに、姿勢、剣の構え方を細かく教えられ、師匠が認可を出すまで矯正させられたものだ。
あの頃の全経験が、たった今、この戦闘で役立っている。
「このっ! 小娘っ!!」
妙な感情が関本を襲う。
なぜか、命がけの殺しあいに心地よさを感じ始めていた。いやむしろこの心地よさは由奈に対して向けられている気さえ。
俺はこいつのことなど何とも思ってはいないはずなのだ。
それなのに——惑う心!
たがいに入り乱れる空気を裂く声、金属の打ちあう音、足の踏み鳴らし。
由奈は関本の剣がさらに速く動くのを感じる。相手も本気だ。もう、昔の情景を幻に観る余裕などない。
そこで彼女は、静かに唇に一つの言葉を唱える。
二つの短剣が白熱し始め、由奈の瞳も炎がさかるようにきらめき出した。
聴き取れない叫びをあげ、刃を関本の大剣にぶつける。剣戟の響きが一段と大きくなった。
ああ、この日々が来ることは常々想像していた。由奈が自分に刃を向ける日を。
やはり貴様も同じ運命だったのだ。人間界をつらぬく因果。
関本は怒りをこめて、ささやく。
「小賢しい真似を——」
死角をついて、側面から短剣をすべらせ由奈が迫ってくる。
わずか数歩の距離。由奈にとっては千歩より遠く、関本にとっては目と鼻の間より近い。
一瞬でも気が迷えば、命はない。
関本の判断はすでに決まっていた。
由奈が片手の短剣で関本の振動をおさえ、もう一つの剣でその顔を衝こうとする時。
関本の剣が、いつの間にか小さくなっていた。霧のように残りの部分が消失し、いささかの障害もない虚空。
戸惑う寸前、由奈は砂ぼこりの上につまずいた。致命的な誤算。
「覚悟しろ、由奈!」
逆手に持った剣のきっさき、ねらうのは喉笛。
感知できない間合いが生じたのを、由奈は逃さない。
今以外に、この機会がどこにある。関本の武装の急所を知っていた。
胸のあたり、装甲が薄い部分ががらあき。
由奈は逡巡しなかった。もう敵を討つことしか、頭の中には。
激痛を無視して脚を起こし、短剣をその先に——
佐藤は激高した。貴族的な所作によって、あからさまに不機嫌を表出することはない。
けれども、期待とは裏腹のこの展開。なぜ喜ぶか。
「役立たずが……」
「宝石は返してもらいましょうか」
由奈は武器をおさめ、両手を広げる。しかし、臨戦態勢であることは全身の動きから分かる。
「まだ私には戦力がある。生きてここから出られると思うなよ」
険悪な表情を隠そうともしない。
「無駄な殺生は犯したくない」
佐藤の往生際の悪さを、幼稚であるとさえ感じた。
もとから生死の境目を行く毎日だ、そこから足を踏み外すことに興味などない。
「由……奈……」
関本は大地に臥していた。息も絶え絶えだ。
そう、死んではいない。
「……師匠」
由奈の後ろで、うめきに近い声をあげる。
「どうして殺さない? 俺はお前に負けたんだぞ」
恨みがないといえば嘘になる。
とはいえ、しかるべき理由が存在するのも事実。
「私は師匠を信じていました」
首だけ後ろに向け、語る由奈。
「私を憶えてくれると。そしてこの再会を、何かの奇跡だと思ってくれると」
激しい波の動きが、しゃべる時奥底から。
「でも師匠は私を敵に売り渡しました。結局師匠にとって私は、それほど懐かしむにも値しない一人に過ぎなかったのです」
「俺が憎いか? 俺はただ生きるために当然の選択をしたに過ぎない!」
関本は深手ではない。無論短剣に鋭く斬られ、肉に傷。だが、驚くほど——浅かった。
手加減が生じたに違いない。
「そのことは知っています。それは師匠に悪意があったのでなければ、私に落ち度があったわけでもない」
関本は枯れた笑いを挙げつつ、立膝をつこうとする。
「俺を憎め! 俺に全ての責任があるのだ。もし俺があの時お前を見込なければ、お前を買わなければ、こんなひどい目を見ることもなかったろう!」
「ですが私は師匠を憎んではいません。やはりあなたは私の師匠であり続けるし、私はあなたに出会えてよかったと思う」
「何……?」
関本は理解できなかった。いまだに、そんな甘い考えに酔っているのか?
由奈にこれほどの軽蔑を感じたことはいまだにない。
「実にさげすむべきは貴様の方だぞ、小娘!」
あらぶる佐藤。二人がどんな関係であろうと、この青年貴族にとって関心ではない。
「だがこれで関本は用済みだ。使い物にならないことが証明された。だからお前は——」
瞠目する由奈。佐藤が片手に黒い短い筒を握り、その先を二人に向けている。
由奈はこの筒について聞いたことがある。
最近流通した武器だ。世間では銃、と呼ぶらしい。
「いかなる呪文もきかんぞ。詠唱する前にこの筒から出た弾がそいつの頸を撃ち抜く!」
佐藤の笑いは、今やこの上なく邪悪だ。折れるのではないかと疑うほど、口が弧を描いている。
由奈はかんだかく叫んだ。
「やめなさい!」
両腕を真横にのばし、関本の前にたちはだかる。
「やるのだーっ!」
佐藤が引き金を引いた。
見えないほどの速さで発射された銀玉が脇腹に命中し、血がほとばしる。
回避することも、できなかった。痛みに討ち破られ、地面にくずおれる由奈。
関本に、突如としていまだ経験したことのない感情が湧きおこる。
それまでなら、唾棄するはずだったその感情が。
「よせ、由奈!」
体の反応を無視して、関本は弟子を背後から羽交いじめにした。
「次はお前だ!!」 再び引き金を引く音。
関本は剣を抜き放ち、弾をはじこうと。
「させない!」
少女はなんとか手についた地面から岩を拾い上げ、佐藤に投げつける。
「ぐっ……」
顎をつぶてで強打し、腰から倒れていく。
静観を保っていた兵士たちが、一斉に動き出す。
関本はすかさず呪文を唱えていた。体力の消耗が激しい魔術だが、身を守るためなら。
呪文が発動した後、二人の姿を深い霧がつつみ、二人とともに消失。
「やはり……私じゃ弟子失格でしたね」
関本は自分の服を裂き、それを由奈に巻いていた。
意識がなおもうろう。それでもしゃべりをやめない少女。
「こんな……人間としての情けを捨てきれない女じゃ……」
布ににじむ血。
「俺はお前に感謝される筋合いはない。これはお前をさらに苦しめるための手段」
関本はそっぽを向きつつ。そんな師匠を察て由奈は自然と笑みがこぼれる。
二人は屋敷の外れ、城壁のそばに立っていた。さすが防衛のためだけあって、やけに高い壁だ。
周囲は暗闇ではっきりしないが、どうやら木々と田畑ばかりで、人気はない。
「ところで……宝石は……?」
「残念だったな」
人の悪い笑顔。
あわてた表情へ急激に由奈は移る。
「そ、そんな……今すぐ取り返さないと」
起き上がろうとして——だが下腹部に痛みがぶりかえし、また押し黙ってしまう。
激しく動いてはならない。
「安心しろ。あいつは間違いなくお前に恨みを抱いている。いずれお前を捕まえて八つ裂きにするはずだ」
あたかも楽しげな師匠の声。どこまでも師匠は弟子を見捨てている。
「そこで宝石の効果だよ。あれは自分が会いたい人間を呼び寄せる。それなら奴はまたお前を見つけるだろう。その時こそ、お前が宝石を奪い返す時だ」
とてつもなく微妙な心。素直に喜べず、かといって怒ることもできない。
由奈の想いは、結局関本を感化することはない。
急に関本はふところからいくつかの金貨を取りだし、由奈の顔の隣に置く。
「この街にいい医者がいる。兵士を治療することで定評があってな。そいつを頼るといい。これが代金さ」
「師匠はどこに……?」
「残念だが、俺はお前と行動を共にするつもりはない。あの師匠と弟子は、すでに死人だ」
重苦しい気分がまさっていく。師匠は、やはり自分とは違う人間なのだ。自分の考え方を決して理解することはない。
それから低い声で、不安げに。
「次に遇う時こそ、本気で殺しあう時かもしれんな」
いかにも、それが起こってほしいとでも言いたげに。
「お前にはその覚悟があるか?」
分かる。どうせ、「ない」と答えさせ、あざけるつもり。
けれど、それ以前に由奈の体力に限界が来ていた。
「さて……どうかな……」
押し寄せた睡魔が、もう由奈をとらえている。
関本が答えを待つ間もなく、弟子はぐっすりと眠ってしまった。
その寝顔の安心した様子と来たら。あまりにも愚かな小娘だ。関本はこの世のいかなる語彙を用いても、由奈の愚かさを糾弾しきれない気がした。
「一体……俺は」
同時に弟子をそのままにしている自分の不可思議さに、自責の念が実体的な衝動とともにわきあがってくる。
「師匠!」
まだ年端もない少年が三つ指をついて、慕う人間にすがる。
「お願いです——どうか弟子にしてください!」
「あのね、生半可な覚悟じゃないのよ」
なだめる女性の背丈は、少年の二倍はある。
腰に差した二振りの短剣は伊達ではない。今にも力一杯抜き放てる体制であることは、完璧なまで鞘元に静止した腕から分かる。
「桐山(きりやま)君。これは命の奪り合いなの」
あたりは熱気が覆い、緑を固めてできた樹木たちがこれを浴びる。その間から忍びこむように漏れる、鳥や虫の音。
由奈は後ろを向き、土くれを敷いた道を行く。すると今度は噛みつくみたいに片腕をつかんできた。
振り向きざま、拳を大きく引いて止める。桐山聡(さとし)は、腰をぬかして何もできずにたたずんだ。
「甘いわね」
元から素養もない人間に、自分の弟子がつとまるものか。
「木下さん!」
初老の男が道の向こうから駆け寄ってきた。自身に満ちた顔で、由奈の瞳をのぞきこんでいう。
「あなたが村にやって来てからというもの、村の防備はずっと堅固になり、盗賊の襲ってくる数もずっと減りました。みんな由奈さんのおかげですよ」
由奈は苦笑した。感謝されていることには存外慣れていない。姫君だった時も、関本と過ごした日々にしても、そう。
「ところで——聡、お前が由奈様に弟子入りしたいというのは本望か?」
聡は目をこすりながら男に対して答える。
「はい。でなければこんな目に遭ってまでついてきませんよ」
関本と別れてはるかな後、由奈は鎮西のある集落に身を寄せていた。
無論旅の途中でしばらく身を落ち着けた場所は幾度もあったが、由奈にとってはこの土地が一番性に合っている気がした。
もう旅もここらへんでしまいにしてしまおうか、とさえ。これほどの距離なら、あの僻陬の地で経験した辛さとも無縁でいられるに違いないと思ったから。
「由奈様は一体その武芸をどこで……?」
桐山はあきらめず、由奈の家までもついていった。
「それは……」
あまり教えたくない情報だ。こんな年の端も行かない少年には、特に。まだこの世の過酷さを知らしめるには若すぎる。
「僕はずっと気になってたんです。師匠が持ってる知識の量はそこらへんの傭兵とかよりもずっと多い。経験豊富と言うにもほどがありますよ」
「だから私を師匠だなんて呼ばないで。偉い人だなんて思われたくないから」
由奈の家は森と接する木々の背後。藁ぶきで、粗末な雰囲気がどの角度からも漂う。
由奈は木製、茶色の扉を開け、中に入る。どういうわけか、そのまま閉めることはなかった。
「あなたに敵を殺す術なんて学ばせたくないから」
顔なんて見たくないとばかり、むしろの上に置いてあったナイフをそばの砥石で研ぎ始める。
「初めて会った時、憶えてるんです。まるで、師匠が血の匂いをまとってたこと」
由奈は黙ってナイフを研ぎ続けていた。
「こんな世の中だから、血をあびるのは当然のことですよ。避けられないんです」
「……それ、ちゃんと意味分かってる?」
まだ青二才ほどの時間しか生きていないこの子に、むずがゆい感情が起こる。
「僕の父は騎士として他の国との戦争で死んだんです。昔からその仇討ちをずっとしたいと思い続けてきた」
なぜ本気ではないか。桐山少年の声は極めて殺気だったものだ。
「昔話なら、いっそ赦してしまいなさい」
「それじゃあ、男が揚がらないですよ!」
桐山は寡黙な由奈の背中にわめきたてたが、少女は一向に動く気配を見せない。
どちらに状況が傾くか全く分からない状況、
「大変だ」
二人の論争を打ち破るごとく急に男が飛び込んできて、後ろに指を立てながら汗を流す。
「佐藤伯爵の軍だ」
由奈の急激に鋭くなっていく目に驚く桐山。
「佐藤敦……!」
数年間、どこかに記録していた名前。
忌まわしい感覚とともに蘇る。
「恐らく他の貴族たちと連合して……この一帯を略奪するかと……!」
その時の彼女の表情は、あっけにとられているようにさえ見えた。
「木下さん、速くしてください!」
由奈は立ち上がり、号令を放つ。
「今すぐ男たちを集めて、倉庫から武器を持ちだして!」
はいっ、とばかりに男は跳びうおのように地面を駆け去った。
「宝石が効いてるのね。奴の意思が私を呼び寄せている」
桐山は宝石のことについては触れず、
「佐藤家といえば僕の父を殺した奴らだ……赦せない」
それからはもう、必死に詰め寄る姿勢で問いかける。
「もしかしたら師匠にも何かあるのではないのですか?」
「でも、何も知らないあなたをむやみに連れ出すわけにはいかない」
あの男とまたもや関わるとは。だが同時に、不運と言うよりは必然と言う感覚も。
「佐藤敦は私がとどめをさす。そうすれば宝石も取り戻せるかも……」
「何か、策があるのですか?」
「違う、そうじゃ……」
だがすでに、自分に功績をあげさせてくれると信じている様子。
「佐藤伯爵を自ら殺しにいらっしゃるのですね。それならどうか僕も連れていってください」
「だからそれは危険……すぎる……」
その時、まだ男気の熟さない少年の顔が、ふと自分のそれに思えた。
かつては関本と自分の間にもこういう会話があった。
関本が果たしていた役を、今や自分に課している。
確かにあの二人には信じ合う関係が成立していたし、それはあの時でもついぞ破れたことはなかったのである。
もう由奈一人が気ままに行動してよかった頃とは、違う。
「じゃあ、村を守る時に遠くから観ていて」
なぜだろうとは思う。しかし呪縛のようなものなのだ。
弟子と師匠という関係は、人を変えて伝えていくものだと、無意識的に少女は認識していた。
「遠くから……?」
かつて関本が前に立って指導してくれた時の心も、こんな風だったのだろうか。
「私は接近戦は得意じゃない。けれど相手に奥深く忍びこんで撹乱することなら得意」
ナイフを拾って、その刃を小指で愛撫。
「あとで他の人たちに教えるわよ。どうやって敵を迎え撃つか。そして、私自身が奴の首をとる順序を」
「あの、それって、僕の出る幕は——」
「いや。あなたがその場にいればそれでいい。それが私が命じる初めての仕事よ」
桐山は由奈の自信に満ちた顔にふと、目がくらみそうになった。
由奈にしても、気が高まるのを感じていた。何しろ、自分が師匠として弟子に模範を見せるという出来事の重さより、それを今から達成する勇壮な気分がまさったからだ。
「木下様! 広場に主戦力が集まりました!」
先ほどの男が、緊張に満ちた顔でふたたびやってくる。
「じゃあ私が今から指揮をとる。聡君もすぐついてきて!」
「は、はい!」
駆け足で田畑が広がる野原をめぐる由奈、それをおぼつかない足取りで追う桐山。
その選択の先、訪れるものが何であるか、二人はまだ何も知らない。