自分だけではないことと反省
僕は今、泣きそうになっている。深夜4時、いや早朝4時か。今日はなかなか寝れなかった。そんな時にとあるものを見て僕は自分を責め、さらに
僕は高校時代への後悔が生まれた。
まず話は約6年前に遡る。
中学を卒業したころ、進学する高校の新入生LINEグループに入っていた。その中で個人チャットで僕に話しかけてくれた女の子がいた。仮にHさんとしておこう。Hさんとは入学前にいろんな話をした。選択科目の音楽と美術はどちらにしたのか、どういう中学に行っていたのかなど。Hさんとは高校に上がるまでLINEをしていた。彼女との会話は楽しかった。
だが、高校入学してから、僕は彼女と一度も話さず高校を卒業することになる。彼女とは3年間クラスが違い、さらには僕が入るグループと彼女のグループは別で、話す機会がなかった。
さらに彼女はスクールカーストのてっぺんにいた。いきなりLINEのことを持ち出し、話しかける勇気はない。
しかし教室は隣なので時々彼女を見かける。彼女はいつも笑顔でとてもかわいかった。そして僕にはHさんは高嶺の花だった。
彼女からすれば僕は顔も知らない他人で昔LINEをしただけだ。話しかかることは今思えば簡単だったが、当時の僕にはそれができなかった。
なぜなら僕は高校時代、道を誤っていたからだ。別に不良になって犯罪を犯したとかそういうことではない。ただ卑屈になって物事を斜めに見るようになったのだ。その理由は家庭状況からくるものだったとかもしれないと今の僕は思う。当時、僕の母が余命宣告をされるほど病気が深刻化していたのだ。母が離婚していたので、父親もいない。僕には支えてくれるものがなかった。
その時から僕はずっと自分以上に不幸な人間はいないと思っていた。友人や部活の人たちにも言わず、だんだん自分しか見れずにひねくれる僕は周りからどう見られていたのだろう。
そして僕は自分を守るために自分を肯定し正当化しつづけた。「僕には親がいないから○○なのは仕方ない」「僕はこんな家庭状況であるにもかかわらず頑張っているほうだ」「周りの奴らはみんな俺より不幸じゃないくせに」
…なかなかだな。
だが、この気持ちは大学に進学して三年経った今もあった。
ようやく話は現代へ戻る。
面白いもので3,4年もたつと僕は高嶺の花として好意を(多分)もっていたHさんのことを、まるっきり忘れていた。だがなぜか今日に限って眠れない僕はスマホをみてぼーっとしていた。そして先ほど、インスタグラムで高校の友人のつながりから彼女のアカウントがたまたま表示され、Hさんのことを思い出した。
彼女のアカウントをみるとフォロワーは1000人以上。僕は懐かしさとともに「へっキラキラした写真ばっかだろ」と、うがんだ目で投稿されている写真を見た。投稿されている写真はどれも楽しそうで僕のいる世界からは程遠いものだった。そして、最後にストーリーをまとめたリールをみた。
僕はそこで自分の考え方が変わる経験をする。
成人式に出席した彼女のリールを見ていた時である。キラキラで可愛い振袖を着た彼女の写真が多く写る中でどうやらHさんのお父さんにあてたメッセージをかいたストーリーがあった。その中では彼女のお母さんが亡くなったこと、成人式での振袖姿を見せれなかったことの悔い、今家事を拙いながらを頑張っていることが書かれていた。
驚いた。高嶺の花だった彼女が、自分とは別世界にいた彼女が。僕と似たような境遇で戦っていることを知った。
僕はその時自分のひねくれた感情や自分だけが不幸だと思っていたこと、自分の生い立ちにかなう人間はいないと自分を守る気持ちは吹き飛ばされた。
Hさんはそんな辛い過去を持ちながらキラキラと人生を歩んでいた。いや、もしかしたらそうではなかったが、それでもみせないようにしていたのかもしれない。
憧れていた人が自分と同じだった。おこがましいかもしれないが、そう感じた。
だが彼女と僕が違うところは人生をまっすぐ生きたかどうかだと思う。
僕はひねくれている自分を反省した。そして一人ではないという謎の安心感とともに涙が出そうになる。
僕はHの人生に二度と交わることはないだろう。
だが僕の人生にHは確かにいて、僕の考えを変えてくれた恩人であると勝手に思うことにした。