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『旅するツール・ド・フランス』と『シドニー!』

 ツール・ド・フランスは毎年やってくるが、毎年特別だ。世界の自転車レースの中でも圧倒的なバリューを持ち、注目度や経済的規模もケタ違い。日本でも、というか日本でさえ、ツール・ド・フランスは公式プログラムが出版されるし、放映権を持っているJ SPORTSの中継は、ほかのレースと趣が変わる。7月のお祭り騒ぎは3週間続き、祭りが終わると、気候は何も変わっていないにもかかわらず、心のなかではひとつの夏が終わったことを感じてしまう。
 今年の5月に『旅するツール・ド・フランス』という本が出た。著者は自転車ジャーナリストの小俣雄風太さん。出版社は、これは意外な印象を受けたが、太田出版。
 昨年(2023年)のツールの全日程を取材した著者が、取材の日々を、レース内容よりも「旅」ということにフォーカスして書かれた本だ。

 自転車ロードレースはスタジアムスポーツではないので、1試合の開催エリアが広い。
 同じロードレースでいえば、マラソンならコース距離が42.195キロ、箱根駅伝なら約110キロ×往復。
 ツールは多くが170〜180キロ程度のコースで、長ければ200キロを超える。競技時間は4時間〜6時間。そして最大の特徴として、これが21ステージ繰り返される。
 21ステージのなかに同じコースはない。ほとんどの場合、町から町へ、あるいは町から山へ、渡り鳥のようにフランス国内(時に国外)を転戦する。
 コース距離だけで合計が3,000キロを軽くオーバーし(2023年は3,400キロ近かった)、取材班の移動距離は6,000キロにもなるという。その日のゴールと次の日のスタート地点が離れている場合もあり、移動の合間に取材をし、食事をし、睡眠をとるという日々だ。そんな旅また旅の日々が3週間以上も続く。
 中継映像からも旅ということを意識させられる。ヘリコプターからの空撮では、日本ではお目にかかれない景色が次から次へと映し出される。アルプスやピレネーの山々、牛の放たれた牧草地、古い教会、朽ちかけたかつての城郭、色味の統一された石造りの家……。ツールでは最終日のパリ・シャンゼリゼを除きあまり都会に立ち寄らないということもあるが、落ち着いた大人の風景を21日間楽しむことができる(余談ながら、3年前のオリンピックのロードレース中継では、それとは正反対の東京平野部の国道沿線の風景が世界に発信されてしまった)。

 ツール・ド・フランス、あるいは自転車ロードレースを「旅」に軸足を置いて書いた本は珍しい。というより、日本ではこれまでなかったかもしれない。
 旅を目的にしているのではなく取材を目的にしてツールに帯同しているので、結果的に﹅﹅﹅﹅旅になったともいえる。本文の印象も、紀行文というよりは取材日記に近い。とはいえその仕分けにどれほどの意味もないし、旅の要素のないツール・ド・フランス取材というのもありえない。
 読み進めるうちに、自分も徐々にツールのゴールに向かっていることを感じる。とくに去年のツールを熱心に追いかけていた人なら、ツールが始まる前の期待感、序盤から中盤にかけての興奮と緊張、残り日数が少なくなるにつれて徐々に迫ってくる寂寥感、そしてパリ・シャンゼリゼでの達成感と喪失感、それを思い出すことができるだろう。
 圧巻なのは、混沌のロズ峠、第17ステージ。大観客で埋まる急勾配で次々と車両がエンストし、レースの流れがせき止められていている映像は衝撃的だったが、まさにそこに立ち会った著者による記述は、文章からもその興奮が伝わってくる。中継を見ている側はポガチャルの「I'm gone. I'm dead.」の衝撃が大きく、その先の混沌はポガチャル失速の呆然の中にあったのだけど、現場ではロズ峠のアクシデントこそが文字通りの山場だったのだと知った。
 コース整備を担当している「デパルトマン」を取材した次の第18ステージの冒頭の筆致があまりに穏やかで、そのぶんだけ前日の興奮が際立っている。そしてこの日の終盤に語られる、コース整備という立場から長年ツールを見てきたデパルトマンの担当者による「ツールと観客」の話は、第17ステージの狂乱を経て読むと、なおのこと胸に迫るものがある。
 空間と時間を通り過ぎていることを感じるという意味でも、「旅」という言葉が似合う本だと思う。第20ステージ、ピノの山岳ラスト・ランの日、取材後に「レオン」でムール貝を食べた話なども、すべてが「平穏」への収束に近づいていることをしみじみと感じ、感動的ですらあった。
 僕にとっては、読みながら「こういう視点での本を読みたかったんだ」と思わせてくれる本だった。

 『旅するツール・ド・フランス』が終盤に差し掛かったところで、ふと村上春樹の『シドニー!』のことが頭に浮かんだ。出版社は文藝春秋で、刊行は2000年。
 タイトルのシドニーとは、もちろんオーストラリアのシドニーで、2000年のシドニーといえばシドニーオリンピック。マラソンで高橋尚子がサングラスを投げて優勝した大会だ。僕は中学生だった。
 村上さんはオリンピック取材のため、大会期間中、シドニーに長期滞在した。
 空間的な移り変わりというのはほとんどない。ホテルとメイン競技場であるオリンピック・パークとの行き来が主。遠出といえばブリスベンまでの片道1,000キロのドライブぐらい(サッカーの日本対ブラジル観戦のため)。内容も、そりゃオリンピックの取材で来ているのだから、競技の観戦記が多い。

 しかし読んでみると、この本には「旅」を感じずにはいられない。
 競技の観戦記はひとつの主題ではあるが、唯一のテーマというわけではない。単純なゲームレポートはほとんどないといっていい。競技そのものとは関係のないことも多く書かれている。水族館や動物園に行ったり、現地の新聞で読んだニュースのことを書いたり、観客や街の様子などにも触れる。
 オーストラリアという国家の歴史、とくに入植者(白人)と先住民であるアボリジニーの関係や、当時の白人側のアボリジニーに対する感情については、かなりスペースを割いている。平和や協和をテーマに(その理念がどこまで共有され、どこまで実際的な効果を持っているかは別にして)開催される世界的な超巨大イベントを迎えるにあたって、それはどうしたって避けられない話題であり、むしろシドニーオリンピックというのは白人とアボリジニーの関係が新時代を迎えるための装置だったのだということが、『シドニー!』を読むと伝わってくる。
 村上春樹は期間中に現地の新聞の取材を受けていて、そのなかで「オリンピック・ゲームというものの中には、何かしら書くべきもの﹅﹅﹅﹅﹅﹅が含まれているような気がした」と答えている。
 各競技の細かい話だけではなく、オリンピック開催中のシドニーで見た光景や風聞を通じて、オーストラリアという国家や文化に迫り、そしてオリンピックという商業主義と国家主義に塗りたくられてぶくぶくと肥って動けなくなった世界的イベントの本質に迫ろうというのが、『シドニー!』のテーマであり、「書くべきもの」というのはそういうことだったのだろうと思う。
 スポーツ、国家、巨大イベントという切り口が三輪となって、それぞれが複雑につながって進んでいく。たとえ空間的な移動は少ないにしても、異邦人の視点から描かれた異国の文化や歴史が迫ってくる。それはまさに旅であり、その旅という要素が、三輪を繋ぐシャフトの役割を果たしているように感じる。

 『旅するツール・ド・フランス』を読み終わって『シドニー!』を読み、また『旅するツール・ド・フランス』を読み返してみたら、最初に読んだときよりもずっと内容が体の中に入り込んできた。
 おそらく、スポーツと旅を軸にした本を読むのははじめてだったし、小俣さんのまとまった文章を読むこともはじめてで、僕としてはどう消化したらいいのかが、初読ではつかみきれていなかったのだろう。それが『シドニー!』を通り抜けることで、勘どころが見えてきた。再読をしたときに、読み飛ばしていたことの多さに驚いたぐらいだ。
 本は、一度読んだだけではわからないことがたくさんある。どの本を再読しても、いつもそう思う。
 スポーツも同じだ。一回見ただけではその競技のことはわからない。わかることもあるが、見落としてしまうことが多くあるし、見落としていたことにも気づかない。何度も見ることで、要点や機微が見えてくる。
 自転車ロードレースを知りたい人はラッキーだ。なにしろもうすぐツール・ド・フランスが始まるのだから。この時期は、一年で最も自転車ロードレースのことを知ることができる時期だなのだ。3週間見続ければ、スポーツとしての魅力だけでなく、フランスという国家の思惑、肥大化したイベントが持つきな臭さ、あるいはそういうところまで垣間見えるかもしれない。
 まあ、そんな難しいことを考えず、3週間ただレースを眺めるだけでいい。つま先から頭まで自転車漬けになれる日々ほど、幸福な時間はない。


1年前のツール・ド・フランスと、24年前のオリンピック

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