目黒考二さん
数日前の夕食のとき、妻が遠くの本棚に横たわっている巨大な本を見つけて、あれは何、と聞いた。それは『本の雑誌』創刊45周年記念に出た本の雑誌社の『社史』だった。「本の雑誌社という会社の社史だよ」と言うと、そんなものいるのか、と言われたので、「いや、あれは社史といっても普通の社史じゃなくて、中身は『本の雑誌風雲録』(著:目黒考二)『本の雑誌血風録』(著:椎名誠)という2冊の面白い本なんです」と答えて、なんとかその場を収めることができた。
その2冊の本を、僕はそれぞれ文庫本でも買って、昨年秋の帰省中に読んだ。妻の実家でもかまわず読み続け、おかげで帰りの新幹線で読む本がなくなって難儀したりした。そのくらい痛快で、ドラマチックで、血湧き肉躍る本だ。そんじょそこらの社史ではないのだ。
『社史』の話が出た翌日、僕は椎名誠の対談集『ホネのような話』を読んでいた。『広告批評』の編集長だった島森路子との対談の中で、『本の雑誌』の話が出ていた。創刊号は100円で、ある本屋では追加追加で納めていたが、レジカウンターに積んでいたら10冊ぐらいPR誌と思われて持ち帰られた、という話があった。
椎名誠のホームページには、目黒考二がシーナ作品を過去から今まですべて読み返して、内容について批評・対談するというコーナーがある。この『本の雑誌』創刊号持ち去り事件は、『ホネのような話』のそのコーナーのでも触れられていた。目黒さんが「そんなことあるわけないよ」と言ったら、椎名さんが「お前から聞いた話だよ」と答え、目黒さんは「なんだか自信がなくなってきたなあ」と凹んでいた。思わずそのことを思い出して笑ってしまった。
その島森路子との対談を読み終えた後、目黒さんが亡くなったことを知った。
目黒さんのエピソードで好きなものが3つある。
1つ目は、父親のツケで本が買える本屋があったという話(ちなみに常盤台にあったそうだ)。村上春樹も子供の頃に近所の本屋でツケで買うことを許されていたとエッセイで書いている。こういう育て方っていいなあと思う。
2つ目は、入社した会社のことごとくで「本が読めなくなるから」という理由で3日で退社を申し出たという話。そのうちの1つには椎名誠がいたデパートニューズ社があって、椎名誠だけは慰留をして結果的にもう少し働くことになって8ヶ月間は勤めた(といってもその間の1ヶ月間は教育実習のため会社は休んだという仰天エピソードがある)。
『本の雑誌血風録』では、入社して初日で嫌になる→でも初日からそんなことは言えないので二日目になる→二日目にも辞めると言えないうちに二日目が終わる→家に帰って明日こそはと思って三日目の朝に勇気を出して辞めると伝える、という目黒さんの葛藤が語られている。たいていの会社は二日目に通勤用の定期券をくれて、三日目に辞めても返せとは言わないので、短期間に入社後三日目退社を繰り返すうちにやたらといろんな経路の定期券が手元に残ってしまった、ということになる。知らないところで友人と酒を飲んで帰りにいろんな方向の定期券をトランプみたいにして眺めていたら不思議がられたが、「その頃の日々そのものがその日めくりのトランプみたいなもんだった」と『本の雑誌血風録』の中の目黒さんは話している。
同じく『本の雑誌血風録』では、デパートニューズ社の退社について、ある秋晴れの日に「今朝起きたらあまりにもいい天気なのでこういう日は家で静かに本を読んでいたいと思いまして」と連絡があったて退社したことになっている。この発言が実際にあったかどうかはわからない。けれども、いい天気なので会社を辞めたいという感情には、妙なリアリティーと説得力を感じる。
3つ目は、本だけ読んでそれだけで食っていけないかと夢想していたという、「『日本読書株式会社』構想」の話。社員は本を読んで内容をカード化し、客からの「こういう本を読みたい」という相談に答える。客は会員制で、会員の趣味趣向からコンピュータには対応できない人間ならではのかゆいところに手が届く運用をする。なじみの客になると「なんかない?」「だんな、つい今しがたいいのが……」というような会話になる。客(会員)からは入会金と月々の会費を取って、それで会社を運営する、という話。結果的に「日本読書株式会社」は設立できないので本を読んでそれだけでとはならないのだけど、目黒さんはやがて書評家として名を成すので、本を読み続けた成果ではある。
ちなみにその後、椎名誠さんは「日本読書株式会社」の話から着想を得た「日本読書公社」という短編小説を書いている(『蚊』所収)。「ダンナいいのが……」という牧歌的な話ではなく、ややディストピア的世界の話になっている。
昨年末、かなり久しぶりに丸善丸の内本店に行った。ほとんど時間がない中でせわしなく棚を眺めていると、目黒さんの著作が数冊並んでいるのが見えた。そこから『本の雑誌風雲録 新装改訂版』(本の雑誌社)と『息子たちよ』(早川書房、北上次郎名義)を買った。これまで共著、対談、寄稿といった本がほとんどだったので、『息子たちよ』を皮切りにして目黒さんの本をもっと読もうと思ったばかりだった。
目黒さんの新しい文章、そして椎名さんの著作をめぐる目黒・椎名対談がもう読めないのかと思うと、どうしたって寂しい。