あとは散るだけ、枯れるだけ

 引退が迫っている。数日、数週間後の話ではないけれど、わたしは今年引退することが決まっている。同期の様子を見ていると、「今年で引退だから楽しむぞ!」だの「俺らの時代だ!」だの、元気がいい。どうやら彼らにとって自分たちの満開はまだみたいだ。

 そりゃそうか。「最後だから気合入れていくぞ!」とよく言うし、二度とは来ないそれを楽しむのが礼儀でも道理でもある。「最後」を神格化して宝物にしたいわたしたちは、その瞬間が一番輝くと信じている。

 わたしは、どうしても前向きになれない。楽しもうだなんて思えない。自分たち、というか自分はもう終わった存在で、後進に道を譲り黙るべきなのだと思ってしまう。何をやったって確実に終わりに向かっていく、その間に後輩たちが力を付けて自分たちを越していく、それを喜びながら、一方で悔しがりながら見ている、そんな手触りの日々である。

 自分がネガティブになっているだけだと言うのも思うのも簡単だ。結論を自分に帰着させれば誰も何も言えない。でも実際、後輩たちの様子を見ているとわたしたちが追いつけないようなスピードで、嫉妬してしまうほどの偉業を成し遂げているのだ。もう、彼らのものなのだ。ここからは彼らのもの。わたしたちがいなくなっても何のダメージもないし、なんなら彼ら、わたしたちが引退した後の話をもうしている。

 わたしだって、何を考えるにしても引退の2文字が頭を離れない。引退する前に大暴れするぞ、と前向きなことも無いわけではないが、「どうせすぐ引退になるし嫌われてもいいや」とか「もう自分たちの時代は終わったからわたしなんてな」などと卑屈極まりない考えがもっぱらだ。華々しく終わりたいと思っていた時期もある。でも、それって傲慢だなと思って、先輩としての自分の価値に自信がないし、だとすれば「いつの間にかいなくなってた」くらいがちょうどいいんだろうなと思った。これは昔から思っていることだけど、その話はまた別の機会に。わたしがいなくなったって悔しいほどに何も変わらない世界で、後輩たちは革命を起こし続けながら伝説になっていく。

 とどのつまり、わたしは誰かに頼られていないと存在意義を感じられないのだろう。引退したら誰かが頼ってくれる環境じゃなくなることが怖い、それだけの話なのかもしれない。「引退しないでください」「悲しいこと言わないでください」そう言ってもらうためにうじうじしているのかもしれない。「あとは引退するだけですもんね!」と言われた時の衝撃が、今も足元を揺るがしている。

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