大道芸人宣言 オリジナル 1993年夏 ❻/十一分割
私は、大道芸の世界一を決めちゃおう!などというたぐいのことは、難しいのでなく、ナンセンスなのだと考えます。よけいなおせっかいだと思います。よくよく考えて見ると、それは、世界の様々な大道芸を、わが国の商業的なマスコミ文化の「枠」に取り込める大道芸と取り込めない大道芸とに区分けしたあげく、この日本の商業的なマスコミ文化の「枠」に取り込める大道芸を、こちらの都合で勝手に甲乙「値付(ねづ)け」したにすぎないのです。「世界の大道芸」の側から見れば、日本の文化を担う方々が「世界の大道芸」に対しどんな見方しかできていないか、自分で自分に点数をつけたようなものです。こういうところで「世界一」になっても、それは、日本の商業的なマスコミ文化の「枠組」の中でひとつひとつ階段を登って行こうとするときに役立つだけであって、それで私たちの投げ銭収入が増えるわけでも、お巡りさんに捕まらなくなるわけでもないのです。テレビで顔を売った芸人は、もしかしたら客寄せが楽になるかも知れませんが、顔を売って歩く暇があるなら、芸を磨き、足腰を鍛え、心にくさびを打ちこんでおいた方が良いに決まっています。国境の外に一歩踏み出したとたんに、どんな顔も役に立たなくなりますから。
それはそれとして、昨年静岡でもらった2つの賞を、私は私なりに大切に考えています。大道芸に対して大変に不利な環境の中で、何故か「大道芸」ということを思い立ち、それから9年余り、いつも色んなものにびくびくしながらなんとかやってきた私が、いま大道芸を愛してくれ始めたばかりの静岡市民の皆さんの無垢な声援に支えられて、大道芸に対する企画者側のはなはだしい無理解、不勉強と戦って勝ち取った賞だと考えています。私がとるはずのない賞でした。「ゲルニカ」の子供たち数十人が続々と舞台に上がってきた時には、この子供たちと一緒になって「現代日本文化」の中枢を占拠したような、百姓一揆の指導者になったような気分でした。
思いきって言いますと、あれは、大道芸を愛する私としては、今思い返すだに腹の虫のおさまらない、不愉快きわまりないコンテストでした。ことにファイナル・コンテストはひどかった!出番を待つ舞台ウラで、肝心の大道芸や大道芸人はそっちのけ、とにかく予定通りにプログラムを消化し、審査を終え、テレビ番組を一本つくらなければならない、そんな仕事っぷりを目にしました。誰が舞台監督かも、聞かなければ分かりません。カセットを持って自分で音効係を訪ね、きっかけの説明をしました。そして結局、半分しか、お願いした通りにはやってもらえなかったのでした。それまで9年余、色んな思いをしながら一生懸命に積み上げてきた私のつつましい「大道芸」が、或る日突然、こんなまな板の上で料理されようとしている、こんなお祭りにはやっぱり出なければ良かった。体がなえるような、のどがつまるような、すごく悲しい気持ちでした。出場を辞退するという選択肢はとれませんでした。50名の市民審査員の皆さんは、企画者側の思惑とは別に、皆一生懸命に審査をして、私をファイナル・コンテストに押し出してくれたのだと思います。
そもそも何故、このような事態があらかじめ予想された「大道芸ワールド・カップ in 静岡」に出場したかというと、この機に静岡で少しでも良い大道芸をやって、静岡市民の皆さんに少しでも大道芸を好きになってもらい、「日本の大道芸」を応援して欲しい、そんな思いがあったからです。何より、市の管理地の一部が大道芸広場として開放される可能性がある、という話が魅力的でした。ここに来た目的だけは、できるだけ果たして帰りたい。
私は、私の「大道芸」の大切な要素を思い切って幾つも切り捨て、ただひとつ、「大道芸」の一番大切な要素のひとつである観客の皆さんの応援に、全てを託すことにしました。私の嫌いなステージに上がり、数千人のお客さんを前に、遠くの皆さんは字も読めず、声も聞きとりにくいでしょうが、どうか最後まで「心の目」で、「魂」で見て下さい! そう前おきすると、笑いと拍手がありました。これで十分です。お客さんたちとつながったのです。あとはちみつかつ大胆に暴れまわるだけです。お客さんたちとのつながりさえ切れなければ、何をやってもいいのです。テレビカメラなんかどうでも良いのです。特別審査員なんかどうでも良いのです。
こうして自分の義務を果たしたあとは、賞のゆくえなどどうでもいいことでした。賞の発表を待つあいだも、2つの賞が僕の手に渡ることが告げられた時にも、僕の受賞を心から喜んでくれている皆さんには少し申し訳ない気がする程、冷静でした。大道芸人が何故ラスベガスに行かなければならないのか、わけが分かりませんでした。こんなことは早く終わって、早くひとりになって酒を飲みたい…。そして、これから先が本当に大変になる、とも思いました。
こういうわけですから、特別審査員のおひとりが審査を降りられたということも、それだけ問題のある賞をとってしまったということで、私はたいへん納得しています。
それからしばらく、取材の申し込みその他がいくつかありましたが、私はいつも、奥歯にものがはさまったようなものの言い方しかできませんでした。この新しい事態に対する大道芸人としての心構え、謂(い)わば「理論武装」ができていなかったのです。それから冬を越し、春を迎え、今、夏の最中(さなか)のヨーロッパにいます。その間、何度かお巡りさんの注意を受け、宝くじ売場のおじさんからの苦情も受け、その間ずっと考え、今も考え続けています。今は、少しはっきりとものが言えるような気がします。
或る「枠」や「企画」の中で大道芸と大道芸人とを評価しても、それは、日本や世界のまだ皆さんの知らない、そして私も知らない大道芸と大道芸人の様々なあり方、姿を愛したことにはならない、ということです。私たちが苦労して積み上げている大道芸文化の都合の良い部分だけ、つまみ食いしているにすぎないということです。つまみ食いするなら、もっとこっそり謙虚にやってもらいたい、でないと「大道芸」はこわれてしまう、ということです。
しかし、私たちの側も、今我が国で大道芸を取り囲み、取り込もうとしている一切の「枠」、「企画」を拒否してやっていこうとするのは不可能ですし、「理論武装」の仕方としても間違っていると思います。またそれでは、大須、野毛など、地元に密着した堅実な伝統を持つ大道芸祭の「企画」にも入っていけないことになってしまいます。実際、ニューヨークでもパリでもバルセロナでもここアヴィニョンでも、日本の場合とは質が違うにしても、或る程度束縛もあり、また街のたたずまい、人々の社会生活のリズムなどに合わせて、可能な限り「芸」の方を変えていかなければなりません。
例えばワシントン・スクエア―では、カセット・デッキなどの機材を使った芸は取り締まられますし、今年三年目、私のお気に入りのバルセロナでは、道路の使い方と私の衣装について警察からクレームがついてしまい、私の「バルセロナ方式」にも若干の手直しを余ギなくされました。収益率が若干落ち込み、その分労働時間を延ばすなどの対処を迫られました。それができない、或いはしたくない時には出ていくしかないわけで、その「枠」にケチをつけることはできません。ことにこの場合、私はバルセロナ市民ではありません。バルセロナの市民生活や警察のあり方について、一日本人大道芸人が何を言えるでしょう?
ひるがえって日本での場合を考えても、もともと大道芸というのは大道芸人だけでつくるものでなく、大道芸人と観客と大道芸を受け入れる街が一緒になってつくり上げるものです。大道芸人の都合ばかりを言ってはいられません。ことに、それぞれの動機や立場や力に応じて大道芸に力添えして下さる皆さんなしには、やっていけません。
そこで私は、第三者の立てる「枠」や「企画」にも入っていく、必要な場合、可能な場合には討論もし、協力もすると同時に、いつでもその「枠」から出ていく「自由」を保持しようと思います。さらに、テレビ主導型の「現代日本文化」という大きな「枠」からも、いつでも出ていく「自由」を大切にしようと思います。日本に生まれ育ち、日本を愛する日本人であると同時に、「日本国」の国境の外にもうひとつ、「大道芸人」としてのアイデンティティを打ちたてようと思います。
≪大道人宣言 オリジナル 1993年夏 ❼/十一分割、に続く≫
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